2014年2月16日日曜日

観音様と現代のスピリチュアル

会津には会津三十三観音があり、今でも巡る事ができる。これまで10世紀以前のお寺を調べて、観音様が会津には多いと感じた。

仏教というと大仏様というイメージだが、会津は、観音様や阿弥陀如様が目立つ。

ちなみに、ウィキペディアによると、大仏(だいぶつ)は、大きな仏像を指す通称。奈良の大仏は盧舎那仏坐像、鎌倉の阿弥陀如来坐像だ。大仏像になる神様は阿弥陀如来坐像が多いようだ。

大仏様は見ても分かるように男性神で、観音様は女性神だ。

ちなみに、会津の大仏様は喜多方市に会津大仏という阿弥陀如来坐像がいらっしゃるそうだ。知らなかった。嘉禄3年(1227年)に始まった願成寺に安置されている。

また、会津には慈母観音という大きな観音像が建っている。かなり大きく、会津の平野部からならそのお姿を確認する事ができる。昭和62年に建立された。
http://homepage2.nifty.com/isso/aizu/aizu.html

540年に始まったとされる恵隆寺(高寺、高寺三十六坊)のご本尊も観音様で、これは弘法大師(空海)の作と伝えられる。

807年以前に栄えた法用寺のご本尊も十一面観音という観音様だ。

昭和に入ってからも観音様の像が建つ、この会津の観音信仰はなんなのだろうか。

その一つの答えが、アセンデット・マスターではないかと思う。

アセンデッド・マスターとは、卓越した霊的指導者でありヒーラーのことで、観音様はそのアセンデット・マスターの一人とされている。

他には、イエス・キリスト、釈迦、菩薩、聖母マリア、大天使ミカエル、アマテラス、ソロモン王、ガネーシャと、あらゆる国の神様がアセンデット・マスターと言われる。

アセンデット・マスターは、最近、スピリチュアル好きな人たちの間で知られる概念で、ドリーン・バーチューという女性の本やエンジェルカードから広がったようだ。チャネリングでアセンデット・マスターと交信する人もいるようだ。

恵隆寺の立木観音も弘法大師(空海)が夢のお告げを聞いて建てたというから、同じような感覚だろう。

ちなみに会津三十三観音の33という数字は、ドリーン・バーチュー女史のエンジェルナンバーでは、以下のように解釈される。

大勢のアセンデッドマスターがあなたを囲み、あらゆることを手助けしています。彼らはあなたの使命を手伝い、祈りに応えるために来ました。今、スピリチュアル的にも彼らに波長を合わせ、どんな質問でもしてみてください。

http://spiritualife2012.blog86.fc2.com/blog-entry-228.html

1000年以上の時を経て、しかし、同じような神様とのつながりが、民間で起きているという事だと思う。会津の三十三観音を巡れば、願い事が観音様に届くのかもしれない。

参考
http://homepage2.nifty.com/isso/aizu/aizu.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%8F
http://www.chusonji.or.jp/guide/precincts/konjikido.html
http://www.inner-wish.com/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AE%E9%81%93/%E3%82%A2%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%89-%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/
http://spiritualife2012.blog86.fc2.com/blog-entry-228.html

2014年2月12日水曜日

10世紀の会津

807年、つまり9世紀の初めには、会津中に沢山のお寺が建てられていたようだということがわかった。現存しているお寺も多い。

では、100年後、会津はどうなったのだろうかと、検索してみた。

仏像が造られたりしていたようだが、あんまり情報がない。いずれ図書館に足を運ばねばと思いつつ、ひとまずネットで下準備。

興味深いサイトを見つけた。
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html

「10世紀頃より会津を支配した勢力は、磐梯町の恵日寺でした。」という記述があった。恵日寺が出来たのは807年、それから100年のときを経て、やはり、会津は、東大寺の高僧達によって、支配されていたようだ。

会津を恵日寺が完全支配したのは1087年のようで、その後約100年間、会津は、恵日寺衆徒支配によって、対外不干渉のモンロー主義のもとにあったのですが、頼朝挙兵に際し、その去就を問われることとなり、結果として、越後の城氏に組みし、会津4郡の兵を率いて、会津の将、乗丹房が出陣、1181年、横田河原の合戦に於いて木曾義仲に破れ、その殆どを失うこととなる。
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html

11世紀になると、最盛期には300余の末社や寺院・霊道が立ち並び、100人以上の神職がいたという、新宮熊野神社が喜多方市に出現する。こちらは始まりが、1055年、現在の地に遷座・造営されたのが1089年、11世紀だ。

会津の仏教の時代が終わり、神道の時代となるのだろうか。神仏分離令が発令されたのは、1868年、明治政府が「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用したことによる。ということで、神仏分離とは関係がなさそうだ。

今まで調べた所によると、飯豊山神社は中国渡来の僧である知道と修験道の開祖である小角が創建したとされる。お坊さんが神社を建てる事もあるようで、今とはまた、仏教、神道の区別の感覚が違っていたのではないかと思う。

しかし、恵日寺がある磐梯町と新宮熊野神社がある喜多方市、そう遠くない距離にあるが、こちらは、神仏がどうというより、政治的ななにかがありそうだ。11世紀の一時期は、この2つが栄えている時代がかぶっているような感じだけど、どういう状況だったのだろうか。

参考
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

2014年2月3日月曜日

高寺三十六坊

以下、抜粋とさせていただきます。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

今を去ること1460有余年前の欽明天皇元年(540)、はるか梁の国から渡来した僧青巌が阿賀野川を遡上して塩峰峠から会津の地を望んだ際、目前の霊峰に紫雲たなびくのを見て「あの山こそが聖地なり」と喜び、この山に草庵を結んで仏教布教の拠点とした、という伝承があります。後にこの庵は高寺と呼ばれ、山そのものも高寺山と呼ばれるようになりました。
 この伝承は、会津の古記録である『会津旧事雑考』や『新編會津風土記』などにも採録されておりますが、さらに高寺の後裔寺と伝えられる恵隆寺の『東奥会津塔寺邑金塔山恵隆寺略縁起』の記事とあわせた文面を要略すると、

「欽明天皇元年、梁の僧青巌、会津に来りて高寺山に草庵を建て高寺と称す。その頃は未だ仏教東漸せざる以前のことなり。次第に繁栄して堂舎子院三千余宇に及ぶ。宝亀六年(775)兵火にかかり遂に廃絶す。」(荻生田和郎『青巌と高寺伝承』会津日報)

 ・・・ということになるようです。

高寺山は、会津坂下町とその西に隣接する高郷村とのほぼ境界線上にあり、標高は401メートル。際立って高い山ではありませんが、それでも近傍では最も高く、頂上からは会津盆地を一望することができ、その頂上には大正時代まで奇麗な小石が敷き詰められた戒壇跡・護摩壇跡および経塚が残っていたそうです。
 いま眺めれば何の変哲もない山ではありますが、かつてここには近隣に堂塔伽藍三千余宇を従えた総本山たる「高寺」が存在し、絢爛なる高寺仏教文化の華を咲かせていた、と伝承は伝えているのです。

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大和朝廷に伝来した仏教は、梁の国から百済を経由してきたものであったわけです。いっぽう会津へ伝来した仏教は、直接梁の国からその国の僧によって伝えられました。どちらが当時の仏教としての純度が高かったか、敢えて記すまでもありますまい。

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壬申の乱以後、律令体制を強化し中央集権化を強力に推進していた朝廷は、地方に対する統制も強めていきます。地方の国や郡には役人を派遣して郡衙を置き、その地方を統治させました。いっぽう、軍将を出征させてさかんに「蝦夷」を討伐させてもいます。
 そして注目していいのは、神護景雲3年(769)、会津郡の丈部庭融ら2人に阿部会津臣の姓が下賜されている、ということでありましょう。姓が下賜されるということは、正式に朝廷の臣と認められたということで、これはつまり会津が完全に中央国家の組織内に入ったということを意味します。
 国家権力を代行する者の眼からは、高寺はどのように見えていたでしょうか。
 当時の朝廷が推し進めていた国家仏教とは異なる、大陸直伝の高寺仏教を標榜するこの一大文化圏は、文字通りの仏教王国、独立国家の様相すら呈していたのではありますまいか。
 地方統治機関の会津郡衙としては、到底国家の中の国家など認められません。そこで国家の楔を打ち込むために地元の有力者に「会津臣」の姓を与え、体制側への取り込みを図ります。彼らは高寺仏教王国の中で盛んに活動し、ついには内紛を起こさせ、それが「勝負沢の戦い」となり、結果守旧派の敗北により高寺は滅亡した、と考えられなくもないのです。

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いずれにせよ。
 原・高寺たる「初代高寺」は、宝亀6年(775)に滅亡しました。
 利仁なる僧が高寺再興に着手するのは、約30年後の延暦23年(804)のことです。

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舒明天皇6年(634)、すでに高寺山近辺に青巌の仏教が定着していたであろうころ、青巌の故郷である梁と深い関わりを持った恵隆という僧が瓢然と高寺に現れます。
 恵隆は、草庵からようやく寺としての形態を持ち始めていた高寺に本格的な堂塔伽藍を建立し、後に「高寺三千坊」と呼ばれる全盛期高寺の実質的な開山者となりました。
 さらに斉明天皇4年(658)、蓮空上人が出て大伽藍を造築、寺名も「石塔山恵隆寺」とします。
 この「石塔山恵隆寺」こそが、初期高寺の全盛期の姿であったでありましょう。

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再興なった中期・高寺(石塔山恵隆寺)は、平安末期まで順調に発展します。俗に「高寺三十六坊」と呼ばれる子院も続々と建立されました。
 初期・高寺の「高寺三千坊」はたぶんに観念的で誇張された表現だったかもしれませんが、この中期・高寺の「高寺三十六坊」は、その半分以上が現在も独立した寺として存在しているなど、かなり具体的に当時の繁栄振りを伝えています。
 参考までに、寺として存続して所在地の判明している20坊を列挙してみましょう。(カッコ内は所在地)

 慈光坊(勝常) 常林坊(栗邑) 金上坊(金上) 正音坊(田中) 真徳坊(舟湯) 極楽坊(永井) 蓮華坊(茅津) 法蔵坊(金沢) 東源坊(樋渡) 大徳坊(牛沢) 薬師坊(杉) 西蓮坊(朝立) 清松坊(晃明) 大泉坊(大口) 無量坊(新舘) 中眼坊(中ノ目) 常法坊(曲沼) 西光坊(小池) 浄泉坊(青津) 調合坊(宇内)

この「石塔山恵隆寺」こそが、初期高寺の全盛期の姿であったでありましょう。

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抜粋ここまで。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

こちらのサイトを読んで、徳一が建てたとされる勝常寺が、高寺の一つだった可能性があることがわかった。

地理的に考えると、むしろその方が自然な気がする。

抜粋ここから
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慧日寺側からの資料で言えば、この寺は「会津四薬師」のひとつとして慧日寺傘下の寺として建立されたことになっています。ところが高寺側からの資料で見れば、勝常寺は元「慈光坊」という高寺三十六坊のひとつであったとされています。

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抜粋ここまで
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

807年に徳一や空海が建てた寺は、ほとんどが会津の、平野部ではなく山間部に建てられている。そのなかで唯一、勝常寺だけが、平野部の湯川村にある。湯川村は高寺のあった坂下町と、地理的に隣り合った場所だ。

ちなみに慧日寺は大同2年(807)年に徳一が磐梯町に建て、最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている寺。勝常寺も大同2年(807)年に徳一が建てたと書いているサイトが多い。

気になる事があって、ちょっと調べたら、「坂上田村麻呂の勧請により高僧徳一が東堂山満福寺を開山」という文言を見つけた。
http://yamayama.jp/toudou/toudou.htm

福島県田村郡小野町にある満福寺は大同2年(807年)に徳一によって開山されたという。

会津にも「大同2年(807年)に徳一によって開山」というお寺が沢山ある。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に関わった人だ。今まで調べてきて、私は、徳一は支配という意図を持って会津に入ってきたのではないかと思っている。

それまで栄えていた美里町の法用寺が出火したのも大同2年(807年)で、翌年に徳一が再建しているというのも、偶然にしては出来すぎているきがする。

会津の人は政治的なことが苦手そうだもの、と思う。

参考
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm
http://yamayama.jp/toudou/toudou.htm

如法寺 鳥追観音

耶麻郡西会津町に大同2年(807)に、会津の西方浄土として徳一大師が建立した。

鳥追観音堂は、日本で唯一の東西向拝口、三方開きという珍しいお堂である。会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所。

大同2年(807)、徳一大師、というキーワードは、今まで何度も出てきた。

同年に徳一大師は磐梯町に慧日寺を建てている。この寺は後に会津仏教文化の発祥の地と言われ、最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられているそうだ。

さらに、湯川村には勝常寺を建てており、こちらは大本山クラスの大寺院である七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

720年から栄えた法用寺が火災で焼失したのも807年で、翌年に法用寺を再建したのも徳一大師と言われる。

こちらは空海(弘法大師)が建立したと言われるが、熱塩加納村に示現寺が建ったのも807年。

と、どうやら、如法寺の鳥追観音はもともとは天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫した際に、農夫に念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けたのが始まりのようだ。

行基は東大寺の「四聖」の一人に数えられ、日本で最初に大僧正になった人だ。奈良の東大寺などの大仏建立の実質上の最高責任者だったらしい。

行基は天平元年(729年)には、会津若松市の東山温泉に羽黒山湯上神社を当時は羽黒山東光寺として開山している。


参考
http://www.aizu-misato.jp/tt/index.php?paged=2
http://www.torioi.com/
http://www.aizu-reichi.gr.jp/torioi/

2014年2月2日日曜日

歴史に対する認識で思った事

いろいろ調べていると、会津には、東大寺に関わる優秀なお坊さんが沢山来ていた事が分かる。

若松の東山温泉にある羽黒山湯上神社を作ったとされる行基は、日本で最初に大僧正になったひとで、奈良の東大寺などの大仏建立の実質上の最高責任者だったらしい。

そんな人が、会津にいるわけがないだろうというのが、正しい日本の歴史の見解になるのではないだろうか。

美里町に法用寺と開いた徳道上人という人を調べると、西国三十三所巡礼は会津三十三観音巡りがルーツなのではという想像に行き着く。

そんなことは、これもまた、正しい日本の歴史から見れば、馬鹿じゃないのということだろう。

会津の古いお寺のルーツは、否定されそうな物が多いが、807年に徳一によって開かれた恵日寺は、開基が明らかな寺院としては東北最古のものになるらしい。

実際、会津には、近畿地方以外ではないような仏像が多く残っているようだ。

アメリカでは、今も、ダーウィンの進化論を否定する人がいるらしいが、歴史の認識とはそういうものなのかもしれない。

会津出身の人間としては、実際の所、会津藩以前の会津というものがどうだったのか、正しく研究され、世に出る日がきてくれたら嬉しいと思う。

丈部庭虫(人物)

神護景雲3(769)年3月13日、会津郡の住人、丈部庭虫、大伴部某に阿部会津臣の制が与えられた。

僧意外では初めて人名が出てきたので調べたい。この時期の会津は高寺が栄えていた時期だ。

丈部は豪族の伴部=馳使部(下働きの人々)を示すらしい。

丈部庭虫を検索して、最初にこのサイトを見つけた。毛野という賜姓の謎についてのサイトだ。
http://www.musubu.jp/manoshousei.htm

話がそれるが、小学校の時、ケノさんというあだ名の男の子がいた。佐野という名字の男の子と、ケノさんの名前の最初のひと文字を合体させて出来たあだ名だから、毛野という姓とは関係ない。

耶麻郡のある小学校での出来事だ。

上のサイトによると、毛野の勢力は耶麻郡→信夫郡→行方郡→宇多郡という経路にあるらしい。

耶麻郡は、今まで何度か書いてきた古屋敷遺跡の塩川町があるところだ。以前は耶麻郡塩川町で今は喜多方市になっている。

信夫郡は福島市のあたりで、行方郡は茨城県の千葉よりのあたり、宇多郡は福島県の相馬市の方だから、太平洋側の宮城県よりとなる。

毛野という賜姓については、つまり、福島県の新潟や山形に近い会津の耶麻郡から、中通りの福島県をへて、太平洋側に届いたという事だろうか。

ちなみに耶麻郡の小中学校に通ったけど、毛野という名字の人はいなかったと思う。

阿部さんはいた。

上のサイトによると、焼き畑に従事していた民のことと言う人もあり阿部氏に賜姓したそうだ。アベはアペ、アピ、でアピはアイヌ語で火のことであるという説があるらしい。


阿部氏が装飾古墳を残したという説もあるらしいが、耶麻郡の塩川町には常世竹花古墳や田中舟森山古墳といった古墳も多く残されている。

阿部になる前の丈部という名字は下働きの人々という意味で、杖刀人とよぶ大王の親衛隊長にあたるのが丈部(はつせかべ)なのだそうだ。

それでは、だれが丈部庭虫と大伴部某に阿部会津臣、阿部陸奥臣という名前を授けてたかというと、宮城県牡鹿郡出身の道嶋嶋足(みちしまのしまたり)という人らしい。

彼は、今日の宮城県牡鹿郡出身の人でありながら中央で近衛中将にまで昇り、現地では陸奥大国造を兼ねていたらしい。その彼が東北の有力者たちに中央貴族並みの氏姓の賜与を斡旋したそうだ。

こちらを参考
http://aizu.sub.jp/kawano/x2012_03.html

氏姓の賜与について、丈部は阿部臣へ、吉弥侯部(きみこべ)は毛野公(けぬのきみ)へ、大伴部は大伴連(むらじ)へ、というように、改名のパターンのようなものはあったらしい。

参考
http://www.kutikomi100.jp/index2/furusato/p/02.htm
http://www.musubu.jp/manoshousei.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E9%83%A1
http://aizu.sub.jp/kawano/x2012_03.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E3%81%AE%E9%96%A2

羽黒山湯上神社

若松の東山温泉にある。天平元年(729年)僧行基によって羽黒山東光寺として開山され、会津地方で最も古くから賑わった寺社のひとつ。

祭神は倉稲魂神。修験の中心地で、神社と寺とが混在した神仏混淆であったが、今では神社だけとなった。

行基は東山温泉と芦ノ牧温泉を発見したとも言われる。行基は天智天皇7年(668)年から天平21年(749)年まで生きた、日本の奈良時代の高僧だ。偶然にも今日2月2日は命日だが、これは旧暦のようで、新暦だと2月23日が命日となるらしい。生まれたのは677年という説もある。

東大寺の「四聖」の一人に数えられ、日本で最初に大僧正になった人のようだ。奈良の東大寺などの大仏建立の実質上の最高責任者だったらしい。

ウィキペディアによると740年から大仏建立に協力していたらしい。

正しい歴史では、会津に行基がいたとは認められないかもしれない。

しかし、会津では他にも高僧が活動していたようで、720年には徳道上人が美里町に法用寺を創建している。

徳道上人は日光を開いたとも言われる僧だが、調べると、西国三十三所巡礼にたどりつく。会津にも会津三十三観音巡りがある。美里町の法用寺の雀林観音(十一面観音菩薩)は会津三十三観音29番だ。

徳道上人は長谷寺を開いたと言われる人物で、長谷寺は奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺だ。長谷寺の本尊は十一面観音像ということで、これは会津の法用寺の雀林観音が十一面観音菩薩ということと一致する。

長谷寺はもともと東大寺(華厳宗)の末寺であり、会津に羽黒山湯上神社を開いたとされる行基も東大寺の「四聖」の一人に数えられる僧ということで、東大寺に縁のある僧だ。

時代が少し進んだ807年には奈良東大寺の法相宗の高僧である徳一大師が会津の磐梯町に慧日寺を開いている。慧日寺は開基が明らかな寺院であるから、東大寺の僧が会津とつながりを持っていたのは事実と言える。

中国の梁の高僧、青岩に540年、後の高寺となる高山無山寺を結び、 634年に恵隆が高寺に堂塔伽藍を建立、辺地域を支配するほどの一大伽藍や36坊もの堂宇を擁していたとすれば、奈良の高僧を迎える土壌は会津にはあったのかもしれない。

元の高寺、今の恵隆寺のご本尊も十一面千手観音菩薩であり、会津三十三観音31番となっている。

参考
http://www.walkerplus.com/spot/ar0207s30296/
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA
http://www.aizue.net/wakamatusi/tera-higasiyama.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%9A%86%E5%AF%BA