2014年5月20日火曜日

塩川町史をまとめる(原始)

縄文時代、古墳時代の会津地方を調べると、塩川町という言葉が出てくる。この町について調べる。

塩川町史第一巻通史編によると、町名の由来は「この地もと七宮村と言いしか村の西南より潮出て流れて日橋川(にっぱしがわ)に入りしをもって塩川村と改め明治42年4月2日をもって町制を施行し塩川町と改称する」そうだ。

塩川町は会津盆地のほぼ中央部にある。

塩川町の縄文時代の遺跡としては、常世原田(とこよはらだ)遺跡、堀込(ほつこめ)遺跡、鶴塚(つるづか)遺跡などがある。

常世原田遺跡は縄文早期常世式の標識遺跡として、1979年に福島県指定史跡になっている。

縄文早期から中期の常世原田遺跡や堀込遺跡は雄国山麓の丘陵地に立地する大規模なものである。

鶴塚遺跡は縄文後期のもので、日橋川沿いの平地部に位置しており、時期による立地の変化も認められる。

塩川町の縄文時代の遺跡は数は多くないが、大規模なものや有名なものが確認される。

縄文晩期末には、西日本の遠賀川(おんががわ)式系の土器が少数伴うようになる。このことは、縄文晩期末に西日本から弥生文化が伝播したことを示している。

弥生中期には、最初は関東からの影響が見られ、中頃から地域色の濃い土器が作られるようになった。

弥生後期には天王山式という地域色の濃い土器を主として用いていたが、中頃には北陸や関東からの影響が強くなり、地元の土器と北陸・関東系のものが一緒に用いられるようになる。

この時期には方形周溝墓と(ほうけいしゅうこうぼ)いう大規模な墓が造られるようになり、階級社会の萌芽が認められる。

方形周溝墓のなかには北陸・山陰系と考えられるものも見られるため、北陸との交流の中で成立したものと思われる。

弥生後期の終末期になると、土器の大部分は北陸系のものとなる。

弥生時代が終わり古墳時代になると、大規模な田中・舟森山古墳が築かれる。

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