2014年5月20日火曜日

塩川町史をまとめる(古代)

古代の始まりは、弥生時代の倭国から畿内地域を中心とした初期の古代国家に移行した段階からとすることができる。

この時期は古墳前期で、塩川町では駒形地区に田中・舟森山古墳、会津若松市に会津大塚山古墳、会津坂下町に亀ヶ森古墳など大型古墳が造営される時期に当たる。

年代は3世紀後半から4世紀末頃である。

5世紀は古墳中期であり、中国の史書に「倭の五王」が登場する。この時期の塩川町では堂島地区の古屋敷遺跡(国指定史跡)に東日本最大級の豪族居館などが造営された時期である。

また、この5世紀ごろには会津地域の古墳の小型が始まった可能性が考えられる。

古墳後期の6世紀になると、古墳は減少し、前方後円墳はまったく見られなくなる。このあり方は阿武隈川流域や太平洋岸など県内の他地域とは異なる様相を示してくる。

しかし、集落はかなり確認され、会津坂下町の樋渡台畑遺跡では居館後が確認されるなどしているが、不明な点が多い時期でもある。

飛鳥時代(592年-710年)になると遺跡はさらに少なくなり、塩川町域で確認されているものは高森山古墳と内屋敷遺構の一部の遺構群のみとなる。

内屋敷遺跡の7世紀式の竪穴住居群は古墳後期とは異なるあり方を示し、飛鳥時代からの様相に変わっている。

この時期になると、有力層の墳墓は終末期古墳や横穴墓となり、会津全域でもその現象が確認できる。

しかし、6世紀になると、他の福島県の地域と様相が異なり、会津では古墳が減少し、他の地域で見られる初期地方寺院も会津盆地内では確認されていない。

しかし、7世紀後半の天武朝末には日橋川南部に会津評家と推定される郡山遺跡(会津若松市河東町)が造営され、奈良・平安時代には会津具郡家となり、会津地域の律令的支配体制が整っていくことになったのではないかとされる。

ここまで調べて、会津には6世紀には古墳が造られなくなったことが分かった。

また、他の地域で見られる初期地方寺院も会津盆地には確認されていないらしい。

この、分かっていないことが多い時期に、538年(540年という説もある)に中国の梁国の僧、青岩(青巌)が会津にやってきて、会津坂下町に高寺(恵隆寺)を開き、独自の仏教文化が花開いたという説が当てはまるのだろうか。

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