2014年2月3日月曜日

高寺三十六坊

以下、抜粋とさせていただきます。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

今を去ること1460有余年前の欽明天皇元年(540)、はるか梁の国から渡来した僧青巌が阿賀野川を遡上して塩峰峠から会津の地を望んだ際、目前の霊峰に紫雲たなびくのを見て「あの山こそが聖地なり」と喜び、この山に草庵を結んで仏教布教の拠点とした、という伝承があります。後にこの庵は高寺と呼ばれ、山そのものも高寺山と呼ばれるようになりました。
 この伝承は、会津の古記録である『会津旧事雑考』や『新編會津風土記』などにも採録されておりますが、さらに高寺の後裔寺と伝えられる恵隆寺の『東奥会津塔寺邑金塔山恵隆寺略縁起』の記事とあわせた文面を要略すると、

「欽明天皇元年、梁の僧青巌、会津に来りて高寺山に草庵を建て高寺と称す。その頃は未だ仏教東漸せざる以前のことなり。次第に繁栄して堂舎子院三千余宇に及ぶ。宝亀六年(775)兵火にかかり遂に廃絶す。」(荻生田和郎『青巌と高寺伝承』会津日報)

 ・・・ということになるようです。

高寺山は、会津坂下町とその西に隣接する高郷村とのほぼ境界線上にあり、標高は401メートル。際立って高い山ではありませんが、それでも近傍では最も高く、頂上からは会津盆地を一望することができ、その頂上には大正時代まで奇麗な小石が敷き詰められた戒壇跡・護摩壇跡および経塚が残っていたそうです。
 いま眺めれば何の変哲もない山ではありますが、かつてここには近隣に堂塔伽藍三千余宇を従えた総本山たる「高寺」が存在し、絢爛なる高寺仏教文化の華を咲かせていた、と伝承は伝えているのです。

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大和朝廷に伝来した仏教は、梁の国から百済を経由してきたものであったわけです。いっぽう会津へ伝来した仏教は、直接梁の国からその国の僧によって伝えられました。どちらが当時の仏教としての純度が高かったか、敢えて記すまでもありますまい。

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壬申の乱以後、律令体制を強化し中央集権化を強力に推進していた朝廷は、地方に対する統制も強めていきます。地方の国や郡には役人を派遣して郡衙を置き、その地方を統治させました。いっぽう、軍将を出征させてさかんに「蝦夷」を討伐させてもいます。
 そして注目していいのは、神護景雲3年(769)、会津郡の丈部庭融ら2人に阿部会津臣の姓が下賜されている、ということでありましょう。姓が下賜されるということは、正式に朝廷の臣と認められたということで、これはつまり会津が完全に中央国家の組織内に入ったということを意味します。
 国家権力を代行する者の眼からは、高寺はどのように見えていたでしょうか。
 当時の朝廷が推し進めていた国家仏教とは異なる、大陸直伝の高寺仏教を標榜するこの一大文化圏は、文字通りの仏教王国、独立国家の様相すら呈していたのではありますまいか。
 地方統治機関の会津郡衙としては、到底国家の中の国家など認められません。そこで国家の楔を打ち込むために地元の有力者に「会津臣」の姓を与え、体制側への取り込みを図ります。彼らは高寺仏教王国の中で盛んに活動し、ついには内紛を起こさせ、それが「勝負沢の戦い」となり、結果守旧派の敗北により高寺は滅亡した、と考えられなくもないのです。

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いずれにせよ。
 原・高寺たる「初代高寺」は、宝亀6年(775)に滅亡しました。
 利仁なる僧が高寺再興に着手するのは、約30年後の延暦23年(804)のことです。

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舒明天皇6年(634)、すでに高寺山近辺に青巌の仏教が定着していたであろうころ、青巌の故郷である梁と深い関わりを持った恵隆という僧が瓢然と高寺に現れます。
 恵隆は、草庵からようやく寺としての形態を持ち始めていた高寺に本格的な堂塔伽藍を建立し、後に「高寺三千坊」と呼ばれる全盛期高寺の実質的な開山者となりました。
 さらに斉明天皇4年(658)、蓮空上人が出て大伽藍を造築、寺名も「石塔山恵隆寺」とします。
 この「石塔山恵隆寺」こそが、初期高寺の全盛期の姿であったでありましょう。

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再興なった中期・高寺(石塔山恵隆寺)は、平安末期まで順調に発展します。俗に「高寺三十六坊」と呼ばれる子院も続々と建立されました。
 初期・高寺の「高寺三千坊」はたぶんに観念的で誇張された表現だったかもしれませんが、この中期・高寺の「高寺三十六坊」は、その半分以上が現在も独立した寺として存在しているなど、かなり具体的に当時の繁栄振りを伝えています。
 参考までに、寺として存続して所在地の判明している20坊を列挙してみましょう。(カッコ内は所在地)

 慈光坊(勝常) 常林坊(栗邑) 金上坊(金上) 正音坊(田中) 真徳坊(舟湯) 極楽坊(永井) 蓮華坊(茅津) 法蔵坊(金沢) 東源坊(樋渡) 大徳坊(牛沢) 薬師坊(杉) 西蓮坊(朝立) 清松坊(晃明) 大泉坊(大口) 無量坊(新舘) 中眼坊(中ノ目) 常法坊(曲沼) 西光坊(小池) 浄泉坊(青津) 調合坊(宇内)

この「石塔山恵隆寺」こそが、初期高寺の全盛期の姿であったでありましょう。

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抜粋ここまで。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

こちらのサイトを読んで、徳一が建てたとされる勝常寺が、高寺の一つだった可能性があることがわかった。

地理的に考えると、むしろその方が自然な気がする。

抜粋ここから
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慧日寺側からの資料で言えば、この寺は「会津四薬師」のひとつとして慧日寺傘下の寺として建立されたことになっています。ところが高寺側からの資料で見れば、勝常寺は元「慈光坊」という高寺三十六坊のひとつであったとされています。

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抜粋ここまで
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

807年に徳一や空海が建てた寺は、ほとんどが会津の、平野部ではなく山間部に建てられている。そのなかで唯一、勝常寺だけが、平野部の湯川村にある。湯川村は高寺のあった坂下町と、地理的に隣り合った場所だ。

ちなみに慧日寺は大同2年(807)年に徳一が磐梯町に建て、最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている寺。勝常寺も大同2年(807)年に徳一が建てたと書いているサイトが多い。

気になる事があって、ちょっと調べたら、「坂上田村麻呂の勧請により高僧徳一が東堂山満福寺を開山」という文言を見つけた。
http://yamayama.jp/toudou/toudou.htm

福島県田村郡小野町にある満福寺は大同2年(807年)に徳一によって開山されたという。

会津にも「大同2年(807年)に徳一によって開山」というお寺が沢山ある。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に関わった人だ。今まで調べてきて、私は、徳一は支配という意図を持って会津に入ってきたのではないかと思っている。

それまで栄えていた美里町の法用寺が出火したのも大同2年(807年)で、翌年に徳一が再建しているというのも、偶然にしては出来すぎているきがする。

会津の人は政治的なことが苦手そうだもの、と思う。

参考
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm
http://yamayama.jp/toudou/toudou.htm

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