2014年2月2日日曜日

会津磐梯山の噴火

806年(大同元年)に噴火し、それまで2,000m以上あった富士山型の山から、1888年噴火前の形になったという。富士山型の山の崩壊については有史以前からの何度かの噴火によるものとの研究も有力である。

噴火の翌年、大同2年(807)年に徳一大師が磐梯町に慧日寺、湯川村に勝常寺を創建、同年、空海が熱塩加納村に五峰山慈眼寺(示現寺)を作ったとされる。

磐梯町は会津磐梯山から近いが、噴火はどの位の規模だったのだろう。

と調べていたら、興味深いサイトを見つけた。
http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu023.htm

このサイトによると、空海が唐から帰国したのは805年となっている。すると、807年に五峰山慈眼寺(示現寺)を熱塩加納村に作った話や、808年に恵隆寺で立木観音を彫った時期と、全くつじつまが合わない訳ではないけれど、帰国してすぐ会津に来たような感じになる。

空海は密教様式が全てという考え方だったようで、坂下町の立木観音のある恵隆寺には密教様式密教様式を忠実に表現した侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像が現在も残っている。

磐梯山が噴火した翌年に磐梯町に徳一は慧日寺を作ったのだろうかという謎は、会津磐梯山の噴火を鎮める為の恵月守を徳一大師が建立したことが歴史上は明らかだというところから、解けそうだ。
http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu024.htm

この噴火のあと、会津には徳一の寺が沢山出来る。それらは、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている慧日寺や、七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる勝常寺など華やかな物であるが、どこかきな臭く感じる。

地元の有力者に守られて共存していたであろう、高寺の時代とは、雰囲気が変わって行ったのではないかと推測する。

時代の変わり目に噴火するのか、磐梯山は1888年(明治21年)にも噴火している。戊辰戦争で負けて、また、会津が不遇の時代を迎えたときだ。

しかし、この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害であり、政府が国を挙げて調査、救済、復旧を実施したらしい。

学術的調査としては、当時としては珍しいアンケートの手法が採られており、かなり詳細な噴火の経過や被害状況、写真が収集され論文としてまとめられているとのこと。

復旧に当たっては義援金は3万8千円(現在の貨幣価値で約15億円に相当)が集まり、復興を支えた。また、噴火前年の1887年に結成された日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初の平時救護(それまでは戦時救護のみ)ともなった。

ちなみに日本で一番古い年金制度はウィキペディアによると明治8年(1875)年の軍人への恩給だが、会津では1663年に身分を問わず90歳以上の者へ養老の玄米が支給されたらしい。

庶民のための学問所としては日本最古のものと言われる稽古堂跡は寛文4年(1664)会津藩主保科正之のとき、横田俊益が創立。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E6%A2%AF%E5%B1%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/807%E5%B9%B4
http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu023.htm
http://tachikikannon.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%87%91
http://www.aizue.net/index.html
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/shiseki/keikodoato.html

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