2014年2月2日日曜日

出雲の国

喜多方市の出雲神社を調べているときに、本家の島根県の出雲神社の興味深いサイトを見つけた。
http://www.iokikai.or.jp/kodai.izumo.html

出雲王国の事が書いてある。8世紀の大和朝廷が、出雲王国を、実在の物ではなく神話にしてしまったという事。なんとなく、会津も似た気配がする。会津にだって5世紀後半から6世紀初頭には古屋敷遺跡という、富の集積と強大な政治・軍事力をもつ権力者の存在があったようだ。

会津は、猪苗代町や坂下町の名前がアイヌ由来という説もあり、どちらかというとアイヌ由来の言葉が多いのかなと思うけど、伊佐須美神社という、何となく他とは雰囲気が違う名前の神社が美里町にある。祭神は伊佐須美大明神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命)

出雲の須佐之男命終焉の地、須佐神社と何となく似た感じだ。

さらに、葦原中国(出雲王国)という言葉が出てくるが、常世竹花古墳の時に調べた、「少名毘古那」という神が常世国から来て葦原の名つ国を造ったとあるという文言とも繋がってくる。

ちなみにスクナヒコ(少名彦、少名彦名、少名毘古、などの表記がある)すくなひにはアイヌ語方面と関わりがあるらしい。

仮に、会津の常世の人が、新潟から海に出て出雲にたどり着いて、国づくりに参加したとすれば、会津人の気性なら、そこで権力を持とうと考えず、ではここで、と身を引くのは、あり得る話のような気がする。地元に帰りたかったのだろう。

島根県では56面出土しているという三角縁神獣鏡は、若松の4世紀末の築造とされる大塚山古墳からも出土している。若松の物は、岡山と福岡の古墳から出土した物と類似しているそうだが、島根のものはどうなんだろうか。

さらに、上のサイトの西谷墳墓群の項目では、紀元1世紀初めに出雲で出来た四隅突出型墳丘墓が、東北南部の会津若松で発掘されていると書いてあるから、会津と出雲に、そのころからつながりがあった事は事実のようだ。

4世紀半ばになると、出雲でも前方後円墳が作られるようになって、大和政権に服従した証拠となるそうだ。同時期に会津では坂下町の鎮守森古墳や、若松の堂ヶ作山古墳、飯盛山古墳が作られている。


参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A
http://homepage2.nifty.com/aizune/iwahashi-jinja.html
http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm

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