神護景雲3(769)年3月13日、会津郡の住人、丈部庭虫、大伴部某に阿部会津臣の制が与えられた。
僧意外では初めて人名が出てきたので調べたい。この時期の会津は高寺が栄えていた時期だ。
丈部は豪族の伴部=馳使部(下働きの人々)を示すらしい。
丈部庭虫を検索して、最初にこのサイトを見つけた。毛野という賜姓の謎についてのサイトだ。
http://www.musubu.jp/manoshousei.htm
話がそれるが、小学校の時、ケノさんというあだ名の男の子がいた。佐野という名字の男の子と、ケノさんの名前の最初のひと文字を合体させて出来たあだ名だから、毛野という姓とは関係ない。
耶麻郡のある小学校での出来事だ。
上のサイトによると、毛野の勢力は耶麻郡→信夫郡→行方郡→宇多郡という経路にあるらしい。
耶麻郡は、今まで何度か書いてきた古屋敷遺跡の塩川町があるところだ。以前は耶麻郡塩川町で今は喜多方市になっている。
信夫郡は福島市のあたりで、行方郡は茨城県の千葉よりのあたり、宇多郡は福島県の相馬市の方だから、太平洋側の宮城県よりとなる。
毛野という賜姓については、つまり、福島県の新潟や山形に近い会津の耶麻郡から、中通りの福島県をへて、太平洋側に届いたという事だろうか。
ちなみに耶麻郡の小中学校に通ったけど、毛野という名字の人はいなかったと思う。
阿部さんはいた。
上のサイトによると、焼き畑に従事していた民のことと言う人もあり阿部氏に賜姓したそうだ。アベはアペ、アピ、でアピはアイヌ語で火のことであるという説があるらしい。
阿部氏が装飾古墳を残したという説もあるらしいが、耶麻郡の塩川町には常世竹花古墳や田中舟森山古墳といった古墳も多く残されている。
阿部になる前の丈部という名字は下働きの人々という意味で、杖刀人とよぶ大王の親衛隊長にあたるのが丈部(はつせかべ)なのだそうだ。
それでは、だれが丈部庭虫と大伴部某に阿部会津臣、阿部陸奥臣という名前を授けてたかというと、宮城県牡鹿郡出身の道嶋嶋足(みちしまのしまたり)という人らしい。
彼は、今日の宮城県牡鹿郡出身の人でありながら中央で近衛中将にまで昇り、現地では陸奥大国造を兼ねていたらしい。その彼が東北の有力者たちに中央貴族並みの氏姓の賜与を斡旋したそうだ。
こちらを参考
http://aizu.sub.jp/kawano/x2012_03.html
氏姓の賜与について、丈部は阿部臣へ、吉弥侯部(きみこべ)は毛野公(けぬのきみ)へ、大伴部は大伴連(むらじ)へ、というように、改名のパターンのようなものはあったらしい。
参考
http://www.kutikomi100.jp/index2/furusato/p/02.htm
http://www.musubu.jp/manoshousei.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E9%83%A1
http://aizu.sub.jp/kawano/x2012_03.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E3%81%AE%E9%96%A2
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