2014年2月1日土曜日

蝦夷征討

蝦夷征討について、ウィキペディアに書いてある事を中心に、ざっと理解を深めたい。

会津地方は、福島県の一地域で、南東北だ。関東以北が対象のようなので、まあ、蝦夷といっていいんじゃないかと、蝦夷という前提で調べたい。

5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した文章の中に日本についての記述があるという。

昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

よくわからないが、478年には、もう中国人は日本中に来ていたという解釈でよいのだろうか。540年には坂下町に中国、梁の高僧、青岩が恵隆寺を起こしている。

中国の高僧といったら、当時、国の賓客なんじゃないかと思うけど、実際、蝦夷征討とは、どの程度正しい認識なのだろう。

宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討があったらしい。

湯川村に七堂伽藍が備わったと言われる常勝寺が出来たのが開かれたのが807年だ。蝦夷征伐の時代の真っ最中に、南東北には仏教の大学が出来て、十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院が栄えていたことになる。

でも、その頃、5、6世紀に湯川村の近くで栄えていた古屋敷遺跡はどうなったのだろう。蝦夷征伐が始まったのがウィキペディアの年表の西暦があるのが、581年からだから、早めに取り潰されてしまったのだろうか。712年には出羽国が設置されたようだが、ここには福島県は含まれていない。山形県と秋田県が出羽国と呼ばれるらしい。

年表の最後は1320年だ。1268年には津軽の蝦夷反乱という項目があるから、その頃には青森まで征伐は進んだようだ。

会津では、蝦夷討伐の一環で、1055年に源頼義が会津に熊野神社を勧進している。喜多方市の新宮熊野神社の長床は現在も国の重要文化財になっている。最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたという。12世紀末に一時衰退、16世紀後半には不遇な時代を迎えたらしい。

まあでも、蝦夷討伐が続いている頃には、栄えていたようだ。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%BE%81%E8%A8%8E

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