2014年1月31日金曜日

大塚山古墳

4世紀末の築造とされ、東北最古の古墳の一つらしい。東北地方では第4位、福島県内では会津坂下町の亀が森遺跡についで第2位らしい。これは会津若松の一箕町にあるらしい。

日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出されたそうだ。

この古墳の発見で、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明されそうだ。

三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」と通称され、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられていたとのこと。

出土品は、岡山や福岡の古墳から出土した物と類似しているらしい。

若松から自転車で行ける距離の坂下町では、4世紀中頃に鎮守森古墳が作られているけど、そことの関係性はどうなのだろう。鎮守森古墳が作られてほどなく、坂下町には亀が森古墳も作られている。坂下町の古墳からは埴輪や二重口縁壷というものが出土されているようだ。

また、4世紀前半頃には若松に全長84mの堂ヶ作山古墳、全長65mの前方後円墳である飯盛山古項が作られたようだ。

参考

立木観音(恵隆寺)

立木観音を調べていると、会津の人の、観光のなんていうか、資源を活かす事の下手さにため息が出てくる。地元だから、頑張って欲しい。

せっかく去年会津が注目されたのに、立木観音がすごいなんて、だれも知らない。私は、子供のころ遠足かなにかで行ったかもしれないけど、印象にない。

子供は仏像なんか興味がないから、派手に観光地化でもされてなければ印象に残らないし、だから、私が会津の観光地でどこがいいか聞かれても、立木観音なんて出てこない。

本尊の身丈は8m50cmあるらしい。弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻したと言い伝えられるらしい。

それだけでもすごいけど、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており、30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われるらしい。

それで、なんでそんなものが会津にあるのか、坂下にあるのかだ。

立木観音がある恵隆寺は、欽明天皇元(540)年、中国、梁の高僧である青岩が庵を結び、後に高寺と呼ばれ隆盛を誇るも、慧日寺の興隆により衰退したらしい。

ウィキペディアによると、仏教が伝来したのは552年説と538年説があるようで、538年説が有力なようだが、540年に恵隆寺が出来る前から、青岩というお坊さんが会津にいたとすれば、奈良、京都より先に会津に仏教が伝わった可能性もあるらしく、栄えた時期にはお坊さんが数千人も会津にいたらしい。

この時代より少し前の4世紀から5世紀の坂下では、亀ヶ森・鎮守森古墳という、東北では二番目に大きい古墳が作られていたり、古墳が継続的に作られていたという、日本列島のなかでもほとんどない地域だったようだから、お墓である古墳を作る事と、仏教は、なんだか親和性はありそうだ。

参考

陣ヶ峯城

坂下町にある城跡で、平安末期の城館らしい。保安元(1120)年、越後の伝城四郎長茂が築いたといわれ、永久2年(1114年)に藤原忠実が伝領しているらしい。藤原忠実は官歴の項目が華やかなので出世した人のようだし、藤原だから京都の人だろうか。

遺構から白磁などの多くの貿易陶磁器や青銅製品、鉄製品が出土したらしいが、それらの状態から、城は焼失したと推定されるらしい。これらの白磁は博多ルートでしか輸入されない高級品だったらしい。

この城が立つ70年位前の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請していて、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に喜多方市に熊野新宮社が遷座・造営されている。そこで100人以上の神官が働いていたらしい。

坂下と若松は自転車で行ける距離だし、坂下と喜多方も近い。関わりがないわけがないけど、どういう関わり方だったのだろう。

これより前の、4から6世紀の古墳時代から会津には豪族がいたみたいだけど、11、12世紀になると西日本の人間が出入りしているらしく、7、8、9世紀頃に何があったのか気になる所だ。


参考
http://www.aizue.net/sityouson/aizubange.html#kamegamorikofun
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E3%81%8C%E5%B3%AF%E5%9F%8E
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-26

亀ヶ森・鎮守森古墳

ここの土地の血も、私には入っている。

亀が森古墳は福島県内では最大で、東北地方では宮城県名取市の雷神山古墳に次ぐ第2位の規模の古墳らしい。

後円部上に観音堂、稲荷神社が祀られている。未発掘であるが、4世紀後半から5世紀の築造と推定されているそうだ。

鎮守森古墳は4世紀中頃築造と推定され、後方部上に八幡神社が祀られているらしい。

坂下町に古墳が多くあるなんて知らなかった。宇内青津古墳群というらしい。

古墳時代前期を通じて古墳が継続的に築造された地域は、大和などの中枢を除けば列島内を見渡してもほとんどないらしい。

この時代から100年後位に、隣町の塩川町に国内最大級の規模を持つ屋敷が出現するのか。どういう流れなんだろう。

そして、今のあの辺りの静けさはなんなんだろう。


参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E3%83%B6%E6%A3%AE%E3%83%BB%E9%8E%AE%E5%AE%88%E6%A3%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%86%85%E9%9D%92%E6%B4%A5%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
http://www.aizue.net/sityouson/aizubange.html#kamegamorikofun

伊佐須美神社

子供のころ、よく行った気がする。あわ饅頭は、違ったっけ?

祟神天皇10年(紀元前88年)に創建されたらしい。紀元前だから、キリストが生まれる前から、日本には神社があったということか。とはいえ、祟神天皇とは、3世紀から4世紀に実在したかもしれない人物だそうだ。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われているらしい。

伊佐須美神社は会津総鎮守で岩代の国一之宮、奥州二ノ宮として崇敬を集めているそうだ。

四道将軍の大毘古命と建沼河別命の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、父子が、御神楽岳で出会ったことから、「会津」という地名が起こったらしい。御神楽岳はもともと伊佐須美神社があった場所らしい。

ウィキペディアによると、四道将軍とは、日本書紀に登場する皇族(王族)の将軍の、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指すそうだ。父子はどの人に当たるんでしょうか。

日本書紀は、学校で習ったから聞いたことがあるけど、日本に伝来する最古の正史らしい。

今度は、正史とは何ぞやとなってくる。

しかし、会津地方は、これだけ、縄文時代から、古墳時代、平安時代と、日本最大の屋敷跡に100人以上の神官がいる神社にと、栄えてきたのに、全然教科書に取り上げられないのは、戊辰戦争で負けたからだろうか。

この前、テレビでもやっていたけど、日本という名前は、もともと東北の国の名前だったらしい。東北には何があるのか。

戊辰戦争だって、会津地方は、福島県だから、京都からは遠いのに、京都守護職とか、なんでそこに会津人が、という感じだ。


参考
http://www.aizue.net/siryou/rekisi-0710-asuka-izen.html
http://www.aizue.net/sityouson/aizumisato.html#isasumijinjya
http://www.aizu-reichi.gr.jp/isasumi/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%81%93%E5%B0%86%E8%BB%8D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

常世原田遺跡

常世(とこよ)という子が下の学年にいた。東京では常世さんという名字の人にはあったことがない。

でも、名字じゃなかったのかもしれない。地名だったのかも。

常世原田遺跡というのが、これもまた、古屋敷遺跡や新宮熊野神社から、歩いて行くのはちょっと遠いけど、高校だったら学区内という感じの場所にあるようだ。

これは、 縄文時代早期の土器らしい。縄文早期中頃というと、およそ8,000年前ということらしい。え?という感じだ。

ウィキペディアによると、縄文時代は年代で言うと、約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)ごろだそうだ。

そして、縄文時代早期の遺跡は小規模な場合が多いらしいが、常世原田遺跡からは土器、土偶、石器は多量に出土するらしい。常世式土器と呼ばれるそうだ。

国内最大級の規模の古屋敷遺跡は5、6世紀に栄えて、11世紀には、100人以上の神職がいる神社がるような、おそらく、神職がそれだけいることは、それ以上の都市あって、縄文時代にも栄えていたということか。今、ちょっと、そんな気配は感じられないぐらいの、何もなかったような静けさは、なんなんだ。


参考
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tohoku/fukusima/40_sokw/sonota.html
http://www.mahoron.fks.ed.jp/tenji/02_shitei_3.htm
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/448.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

古屋敷遺跡

熊野神社長床からそう遠くないところに、自転車で結構すぐ行けそうな距離に、古屋敷遺跡がある。

出土した土器から、5世紀後半から6世紀初頭の古墳時代中頃の屋敷の遺跡ということ。

現在確認されている古墳時代の豪族 (首長)居館関連遺跡の中でも国内最大級の規模で、当時の政治・軍事・経済の中心地。本遺跡の施設規模から、富の集積と強大な政治・軍事力をもつ権力者の存在が想定されるらしい。

平成12年に国指定史跡に指定されたそうだ。

熊野神社長床は1055年に始まったから、11世紀で、それより5世紀前に、すでにあの辺は栄えていたということのようだ。

最近、帰ってないけど、あのあたりは、今は田んぼの中に民家が建っているような感じだけど、 1000年以上前は、政治力や軍事力が集まったところだったのかと思うと、不思議だ。


参考
http://www.city.kitakata.fukushima.jp/shimin/gyosei/14902/14982/16463/16917/016914.html

熊野神社長床

喜多方市慶徳町新宮。国の重要文化財の熊野神社長床という拝殿があるところだ。

私に高貴な血が流れてるとしたら、そこなのかなと思う。なんとなく。霊的な意味で高貴だと、占い師に言われたから、そこからということで。

ウィキペディアによると、長床がある新宮熊野神社は、平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれるらしい。

前九年の役というのは、平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役らしい。もう、訳がわからないが、調べていこう。

この前九年の役で、安倍氏がほろび、清原氏が東北の覇者となったそうだ。

誰なんだ。そして、 源頼義は安倍氏側なのか、清原氏側なのか。

どっちにもついていたようだが、よく解らない。安倍氏と清原氏は東北の人で、源頼義は大阪出身のようだ。ウィキペディアの源頼義の項目によると、出羽の豪族清原氏と協力して安倍氏を討ったらしい。

それはいいのだが、要は、なぜ、喜多方市の外れに新宮熊野神社を作ったのかだ。

最盛期には300余の末社や寺院・霊道が立ち並び、100人以上の神職がいたらしい。その頃の喜多方は、どういうところだったのだろうか。

会津のことと私

あんまり、子供のころの思い出に、いい思い出がないけど、会津で生まれ育った。親戚関係も、会津にいる人が多いから、おそらく、私のDNAの中に会津という要素は相当濃い。

人生というものに、行き詰まって数年。今は東京にいて、自分の人生にもがいている。

占いとか、スピリチュアル関連にも相当すがっている。そうでなければ生きられない。

その中で、生まれというもの、親、その親、祖先、というものを指摘されることが多い。

古い家。高貴な血。

実際の所、実家は、創業100年、私の代で4代目の家業がある。でも、その前をたどると農家だ。

家業を起こした曾祖父の実家も、そこに嫁いだ曾祖母の実家も農家だ。

場所は、会津若松ではない。周辺の田んぼがたくさんあるところの中の、小さな町。

何が、私を縛り付けるのか、なにがあの土地にあるのか、なにもないのか、書いていきたいと思う。