2014年5月20日火曜日

塩川町史をまとめる(奈良時代)

奈良時代は、広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。

狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。

奈良時代になると、塩川町域では内屋敷遺跡が大規模に展開していく。そこには仏堂も造営されており、有力層の居宅も置かれていたものと思われる。

その一方で平安初期の9世紀前半には荒屋敷遺跡に川湊が作られ中世初期まで続いていく。

内屋敷跡の立地も日橋川に面した段丘上である。

塩川町域が古代から中世を通して日橋川を用いた会津盆地北部の流通拠点となった基礎は既に飛鳥時代に始まっていたことも考えられる。

そして、奈良時代末頃になると、日橋川に注ぐ田付川を遡ったところに地域有力層の居宅と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bが出現する。

この遺跡は9世紀後半に大きく展開し、10世紀末頃まで続いていく。この時期は、会津地方の北部が耶麻郡として会津郡から分立していた時期で、この居宅遺跡には耶麻郡の郡領層が居住していた可能性が高いと言える。

また、9世紀後半頃からは耶麻郡の中心地域と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bの周辺から5キロ近く離れた大塩川流域にも居宅が成立し、11世紀前半まで続く。

塩川町域は、奈良時代には会津盆地北部の中心地域であり、奈良時代末頃に会津郡から分地された古代耶麻郡の中心部がこの辺りであったことを示す。

平安時代中頃にはそこに新たな有力層が加わり、11世紀中頃までにはそれらが消滅し、古代の遺跡が姿を消し、中世的社会が始まるものとされる。

ここまで調べて、荒屋敷という言葉を何度かキーボードで打ち込むと、変換候補に阿頼耶識が出てくる。

阿頼耶識(あらやしき)は大乗仏教の用語で、サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。

また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの大乗仏教の根本思想のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。

興味深いのが、ālaya の語義は、住居・場所の意であるというところだ。

もし、古屋敷、荒屋敷、内屋敷などの塩川の遺跡の名前が、仏教から来ているものだとしたら、どうだろうか。

538年には中国の僧が、会津に仏教を持ち込んだとしても、そのときに始めて中国人が会津に入ったときとは言えないのかもしれない。

それ以前から、中国との交流があったからこそ、僧が迎え入れられ、仏教が根付いたと考える方が自然だ。

古代の塩川では、北陸の影響が強くなる時期があるが、新潟から日橋川に繋がる阿賀野川を通じた交流だとしたら、そして、新潟に、中国の船が来ていたらと考えると、可能性として十分にある話のような気がする。

塩川町史をまとめる(古代)

古代の始まりは、弥生時代の倭国から畿内地域を中心とした初期の古代国家に移行した段階からとすることができる。

この時期は古墳前期で、塩川町では駒形地区に田中・舟森山古墳、会津若松市に会津大塚山古墳、会津坂下町に亀ヶ森古墳など大型古墳が造営される時期に当たる。

年代は3世紀後半から4世紀末頃である。

5世紀は古墳中期であり、中国の史書に「倭の五王」が登場する。この時期の塩川町では堂島地区の古屋敷遺跡(国指定史跡)に東日本最大級の豪族居館などが造営された時期である。

また、この5世紀ごろには会津地域の古墳の小型が始まった可能性が考えられる。

古墳後期の6世紀になると、古墳は減少し、前方後円墳はまったく見られなくなる。このあり方は阿武隈川流域や太平洋岸など県内の他地域とは異なる様相を示してくる。

しかし、集落はかなり確認され、会津坂下町の樋渡台畑遺跡では居館後が確認されるなどしているが、不明な点が多い時期でもある。

飛鳥時代(592年-710年)になると遺跡はさらに少なくなり、塩川町域で確認されているものは高森山古墳と内屋敷遺構の一部の遺構群のみとなる。

内屋敷遺跡の7世紀式の竪穴住居群は古墳後期とは異なるあり方を示し、飛鳥時代からの様相に変わっている。

この時期になると、有力層の墳墓は終末期古墳や横穴墓となり、会津全域でもその現象が確認できる。

しかし、6世紀になると、他の福島県の地域と様相が異なり、会津では古墳が減少し、他の地域で見られる初期地方寺院も会津盆地内では確認されていない。

しかし、7世紀後半の天武朝末には日橋川南部に会津評家と推定される郡山遺跡(会津若松市河東町)が造営され、奈良・平安時代には会津具郡家となり、会津地域の律令的支配体制が整っていくことになったのではないかとされる。

ここまで調べて、会津には6世紀には古墳が造られなくなったことが分かった。

また、他の地域で見られる初期地方寺院も会津盆地には確認されていないらしい。

この、分かっていないことが多い時期に、538年(540年という説もある)に中国の梁国の僧、青岩(青巌)が会津にやってきて、会津坂下町に高寺(恵隆寺)を開き、独自の仏教文化が花開いたという説が当てはまるのだろうか。

塩川町史をまとめる(原始)

縄文時代、古墳時代の会津地方を調べると、塩川町という言葉が出てくる。この町について調べる。

塩川町史第一巻通史編によると、町名の由来は「この地もと七宮村と言いしか村の西南より潮出て流れて日橋川(にっぱしがわ)に入りしをもって塩川村と改め明治42年4月2日をもって町制を施行し塩川町と改称する」そうだ。

塩川町は会津盆地のほぼ中央部にある。

塩川町の縄文時代の遺跡としては、常世原田(とこよはらだ)遺跡、堀込(ほつこめ)遺跡、鶴塚(つるづか)遺跡などがある。

常世原田遺跡は縄文早期常世式の標識遺跡として、1979年に福島県指定史跡になっている。

縄文早期から中期の常世原田遺跡や堀込遺跡は雄国山麓の丘陵地に立地する大規模なものである。

鶴塚遺跡は縄文後期のもので、日橋川沿いの平地部に位置しており、時期による立地の変化も認められる。

塩川町の縄文時代の遺跡は数は多くないが、大規模なものや有名なものが確認される。

縄文晩期末には、西日本の遠賀川(おんががわ)式系の土器が少数伴うようになる。このことは、縄文晩期末に西日本から弥生文化が伝播したことを示している。

弥生中期には、最初は関東からの影響が見られ、中頃から地域色の濃い土器が作られるようになった。

弥生後期には天王山式という地域色の濃い土器を主として用いていたが、中頃には北陸や関東からの影響が強くなり、地元の土器と北陸・関東系のものが一緒に用いられるようになる。

この時期には方形周溝墓と(ほうけいしゅうこうぼ)いう大規模な墓が造られるようになり、階級社会の萌芽が認められる。

方形周溝墓のなかには北陸・山陰系と考えられるものも見られるため、北陸との交流の中で成立したものと思われる。

弥生後期の終末期になると、土器の大部分は北陸系のものとなる。

弥生時代が終わり古墳時代になると、大規模な田中・舟森山古墳が築かれる。

2014年5月12日月曜日

梁(りょう、502年 - 557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝

538年、梁から来た青岩という僧が、会津坂下町に高寺を開いたという。梁とはどういう国だったのか調べてみた。

国土は、今の中国の、四分の一ぐらいだろうか。結構大きい。その頃は、梁と東魏、西魏の三つに分かれていたようだ。

この国は風俗が乱れてわずか50年で滅亡したようだ。

ウィキペディアの梁の項目で注目すべきは宗教について。

武帝は異常なほど仏教に傾倒し、後世からはこのために梁の亡国を招いたとして非難される一因となっているらしい。

中国皇帝は国家儀礼は儒教に基づいて行なうのが当然なのだが武帝は仏教に基づいて行なうなど、熱狂的に仏教に傾倒していたようだ。

さすがにネットではこれ以上の情報は見つからないが、仏教というキーワードが出てきた。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)

2014年5月11日日曜日

会津と観音

会津の仏教のキーワードは観音だと思う。観音とはなんなのか、調べていきたい。

まず、スピリチュアルに傾倒している私が一番最初に連想するのは、アモラ・クァン・インだ。クァン・インとは観音のこと。

アモラという女性は、アメリカ人で、世界的に有名なスピリチュアルリーダーであり、ドルフィンスターテンプル・ミステリースクール 創始者、プレアデス覚醒への道という本の作者だ。

最近、セドナと並んで有名になりつつある聖地、シャスタで活動、2013年に事故で亡くなった。

ちょうど、私が人生に悩んで、このブログを書き始めた頃、穴口恵子という人を知り、実際に彼女の開くイベントに行くようになったのだけど、彼女の話の中から、アモラという女性を知った。

そこで、観音というキーワードが繋がったので、自分の中で印象深い。

ちなみに、ドルフィンスターテンプル・ミステリースクールのミステリーは密教のミステリーのことのようだ。

観音菩薩の項目をウィキペディアで調べると、密教という単語が出てくる。

密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。

会津の恵隆寺(高寺)にある、空海が彫ったとされる立木観音と、眷族の像は密教様式であり、空海は中国より真言密教をもたらし、真言宗を開いた人だ。

会津には三十三観音があり、京都には三十三間堂がある。会津の立木観音は密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われているらしい。

33という数字が、密教では特別な数字のようだ。

三十三観音は各地にあるようだから、調べていきたいと思う。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

2014年5月8日木曜日

NHKニュース『縄文中期の漆の採取跡見つかる』

さいたま市の遺跡から900年前の漆の木に、樹液を採取した際に付けられた跡が見つかったとのこと。

漆の採取や加工が縄文時代の中期から行われていたことを示す貴重な資料となるそうだ。

縄文中期の漆の採取跡見つかる http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140508/k10014309261000.html

2014年2月16日日曜日

観音様と現代のスピリチュアル

会津には会津三十三観音があり、今でも巡る事ができる。これまで10世紀以前のお寺を調べて、観音様が会津には多いと感じた。

仏教というと大仏様というイメージだが、会津は、観音様や阿弥陀如様が目立つ。

ちなみに、ウィキペディアによると、大仏(だいぶつ)は、大きな仏像を指す通称。奈良の大仏は盧舎那仏坐像、鎌倉の阿弥陀如来坐像だ。大仏像になる神様は阿弥陀如来坐像が多いようだ。

大仏様は見ても分かるように男性神で、観音様は女性神だ。

ちなみに、会津の大仏様は喜多方市に会津大仏という阿弥陀如来坐像がいらっしゃるそうだ。知らなかった。嘉禄3年(1227年)に始まった願成寺に安置されている。

また、会津には慈母観音という大きな観音像が建っている。かなり大きく、会津の平野部からならそのお姿を確認する事ができる。昭和62年に建立された。
http://homepage2.nifty.com/isso/aizu/aizu.html

540年に始まったとされる恵隆寺(高寺、高寺三十六坊)のご本尊も観音様で、これは弘法大師(空海)の作と伝えられる。

807年以前に栄えた法用寺のご本尊も十一面観音という観音様だ。

昭和に入ってからも観音様の像が建つ、この会津の観音信仰はなんなのだろうか。

その一つの答えが、アセンデット・マスターではないかと思う。

アセンデッド・マスターとは、卓越した霊的指導者でありヒーラーのことで、観音様はそのアセンデット・マスターの一人とされている。

他には、イエス・キリスト、釈迦、菩薩、聖母マリア、大天使ミカエル、アマテラス、ソロモン王、ガネーシャと、あらゆる国の神様がアセンデット・マスターと言われる。

アセンデット・マスターは、最近、スピリチュアル好きな人たちの間で知られる概念で、ドリーン・バーチューという女性の本やエンジェルカードから広がったようだ。チャネリングでアセンデット・マスターと交信する人もいるようだ。

恵隆寺の立木観音も弘法大師(空海)が夢のお告げを聞いて建てたというから、同じような感覚だろう。

ちなみに会津三十三観音の33という数字は、ドリーン・バーチュー女史のエンジェルナンバーでは、以下のように解釈される。

大勢のアセンデッドマスターがあなたを囲み、あらゆることを手助けしています。彼らはあなたの使命を手伝い、祈りに応えるために来ました。今、スピリチュアル的にも彼らに波長を合わせ、どんな質問でもしてみてください。

http://spiritualife2012.blog86.fc2.com/blog-entry-228.html

1000年以上の時を経て、しかし、同じような神様とのつながりが、民間で起きているという事だと思う。会津の三十三観音を巡れば、願い事が観音様に届くのかもしれない。

参考
http://homepage2.nifty.com/isso/aizu/aizu.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%8F
http://www.chusonji.or.jp/guide/precincts/konjikido.html
http://www.inner-wish.com/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AE%E9%81%93/%E3%82%A2%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%89-%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/
http://spiritualife2012.blog86.fc2.com/blog-entry-228.html

2014年2月12日水曜日

10世紀の会津

807年、つまり9世紀の初めには、会津中に沢山のお寺が建てられていたようだということがわかった。現存しているお寺も多い。

では、100年後、会津はどうなったのだろうかと、検索してみた。

仏像が造られたりしていたようだが、あんまり情報がない。いずれ図書館に足を運ばねばと思いつつ、ひとまずネットで下準備。

興味深いサイトを見つけた。
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html

「10世紀頃より会津を支配した勢力は、磐梯町の恵日寺でした。」という記述があった。恵日寺が出来たのは807年、それから100年のときを経て、やはり、会津は、東大寺の高僧達によって、支配されていたようだ。

会津を恵日寺が完全支配したのは1087年のようで、その後約100年間、会津は、恵日寺衆徒支配によって、対外不干渉のモンロー主義のもとにあったのですが、頼朝挙兵に際し、その去就を問われることとなり、結果として、越後の城氏に組みし、会津4郡の兵を率いて、会津の将、乗丹房が出陣、1181年、横田河原の合戦に於いて木曾義仲に破れ、その殆どを失うこととなる。
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html

11世紀になると、最盛期には300余の末社や寺院・霊道が立ち並び、100人以上の神職がいたという、新宮熊野神社が喜多方市に出現する。こちらは始まりが、1055年、現在の地に遷座・造営されたのが1089年、11世紀だ。

会津の仏教の時代が終わり、神道の時代となるのだろうか。神仏分離令が発令されたのは、1868年、明治政府が「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用したことによる。ということで、神仏分離とは関係がなさそうだ。

今まで調べた所によると、飯豊山神社は中国渡来の僧である知道と修験道の開祖である小角が創建したとされる。お坊さんが神社を建てる事もあるようで、今とはまた、仏教、神道の区別の感覚が違っていたのではないかと思う。

しかし、恵日寺がある磐梯町と新宮熊野神社がある喜多方市、そう遠くない距離にあるが、こちらは、神仏がどうというより、政治的ななにかがありそうだ。11世紀の一時期は、この2つが栄えている時代がかぶっているような感じだけど、どういう状況だったのだろうか。

参考
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

2014年2月3日月曜日

高寺三十六坊

以下、抜粋とさせていただきます。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

今を去ること1460有余年前の欽明天皇元年(540)、はるか梁の国から渡来した僧青巌が阿賀野川を遡上して塩峰峠から会津の地を望んだ際、目前の霊峰に紫雲たなびくのを見て「あの山こそが聖地なり」と喜び、この山に草庵を結んで仏教布教の拠点とした、という伝承があります。後にこの庵は高寺と呼ばれ、山そのものも高寺山と呼ばれるようになりました。
 この伝承は、会津の古記録である『会津旧事雑考』や『新編會津風土記』などにも採録されておりますが、さらに高寺の後裔寺と伝えられる恵隆寺の『東奥会津塔寺邑金塔山恵隆寺略縁起』の記事とあわせた文面を要略すると、

「欽明天皇元年、梁の僧青巌、会津に来りて高寺山に草庵を建て高寺と称す。その頃は未だ仏教東漸せざる以前のことなり。次第に繁栄して堂舎子院三千余宇に及ぶ。宝亀六年(775)兵火にかかり遂に廃絶す。」(荻生田和郎『青巌と高寺伝承』会津日報)

 ・・・ということになるようです。

高寺山は、会津坂下町とその西に隣接する高郷村とのほぼ境界線上にあり、標高は401メートル。際立って高い山ではありませんが、それでも近傍では最も高く、頂上からは会津盆地を一望することができ、その頂上には大正時代まで奇麗な小石が敷き詰められた戒壇跡・護摩壇跡および経塚が残っていたそうです。
 いま眺めれば何の変哲もない山ではありますが、かつてここには近隣に堂塔伽藍三千余宇を従えた総本山たる「高寺」が存在し、絢爛なる高寺仏教文化の華を咲かせていた、と伝承は伝えているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

大和朝廷に伝来した仏教は、梁の国から百済を経由してきたものであったわけです。いっぽう会津へ伝来した仏教は、直接梁の国からその国の僧によって伝えられました。どちらが当時の仏教としての純度が高かったか、敢えて記すまでもありますまい。

・・・・・・・・・・・・・・・

壬申の乱以後、律令体制を強化し中央集権化を強力に推進していた朝廷は、地方に対する統制も強めていきます。地方の国や郡には役人を派遣して郡衙を置き、その地方を統治させました。いっぽう、軍将を出征させてさかんに「蝦夷」を討伐させてもいます。
 そして注目していいのは、神護景雲3年(769)、会津郡の丈部庭融ら2人に阿部会津臣の姓が下賜されている、ということでありましょう。姓が下賜されるということは、正式に朝廷の臣と認められたということで、これはつまり会津が完全に中央国家の組織内に入ったということを意味します。
 国家権力を代行する者の眼からは、高寺はどのように見えていたでしょうか。
 当時の朝廷が推し進めていた国家仏教とは異なる、大陸直伝の高寺仏教を標榜するこの一大文化圏は、文字通りの仏教王国、独立国家の様相すら呈していたのではありますまいか。
 地方統治機関の会津郡衙としては、到底国家の中の国家など認められません。そこで国家の楔を打ち込むために地元の有力者に「会津臣」の姓を与え、体制側への取り込みを図ります。彼らは高寺仏教王国の中で盛んに活動し、ついには内紛を起こさせ、それが「勝負沢の戦い」となり、結果守旧派の敗北により高寺は滅亡した、と考えられなくもないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

いずれにせよ。
 原・高寺たる「初代高寺」は、宝亀6年(775)に滅亡しました。
 利仁なる僧が高寺再興に着手するのは、約30年後の延暦23年(804)のことです。

・・・・・・・・・・・・・・・

舒明天皇6年(634)、すでに高寺山近辺に青巌の仏教が定着していたであろうころ、青巌の故郷である梁と深い関わりを持った恵隆という僧が瓢然と高寺に現れます。
 恵隆は、草庵からようやく寺としての形態を持ち始めていた高寺に本格的な堂塔伽藍を建立し、後に「高寺三千坊」と呼ばれる全盛期高寺の実質的な開山者となりました。
 さらに斉明天皇4年(658)、蓮空上人が出て大伽藍を造築、寺名も「石塔山恵隆寺」とします。
 この「石塔山恵隆寺」こそが、初期高寺の全盛期の姿であったでありましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・

再興なった中期・高寺(石塔山恵隆寺)は、平安末期まで順調に発展します。俗に「高寺三十六坊」と呼ばれる子院も続々と建立されました。
 初期・高寺の「高寺三千坊」はたぶんに観念的で誇張された表現だったかもしれませんが、この中期・高寺の「高寺三十六坊」は、その半分以上が現在も独立した寺として存在しているなど、かなり具体的に当時の繁栄振りを伝えています。
 参考までに、寺として存続して所在地の判明している20坊を列挙してみましょう。(カッコ内は所在地)

 慈光坊(勝常) 常林坊(栗邑) 金上坊(金上) 正音坊(田中) 真徳坊(舟湯) 極楽坊(永井) 蓮華坊(茅津) 法蔵坊(金沢) 東源坊(樋渡) 大徳坊(牛沢) 薬師坊(杉) 西蓮坊(朝立) 清松坊(晃明) 大泉坊(大口) 無量坊(新舘) 中眼坊(中ノ目) 常法坊(曲沼) 西光坊(小池) 浄泉坊(青津) 調合坊(宇内)

この「石塔山恵隆寺」こそが、初期高寺の全盛期の姿であったでありましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・

抜粋ここまで。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

こちらのサイトを読んで、徳一が建てたとされる勝常寺が、高寺の一つだった可能性があることがわかった。

地理的に考えると、むしろその方が自然な気がする。

抜粋ここから
・・・・・・・・・・・・・・・

慧日寺側からの資料で言えば、この寺は「会津四薬師」のひとつとして慧日寺傘下の寺として建立されたことになっています。ところが高寺側からの資料で見れば、勝常寺は元「慈光坊」という高寺三十六坊のひとつであったとされています。

・・・・・・・・・・・・・・・
抜粋ここまで
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm

807年に徳一や空海が建てた寺は、ほとんどが会津の、平野部ではなく山間部に建てられている。そのなかで唯一、勝常寺だけが、平野部の湯川村にある。湯川村は高寺のあった坂下町と、地理的に隣り合った場所だ。

ちなみに慧日寺は大同2年(807)年に徳一が磐梯町に建て、最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている寺。勝常寺も大同2年(807)年に徳一が建てたと書いているサイトが多い。

気になる事があって、ちょっと調べたら、「坂上田村麻呂の勧請により高僧徳一が東堂山満福寺を開山」という文言を見つけた。
http://yamayama.jp/toudou/toudou.htm

福島県田村郡小野町にある満福寺は大同2年(807年)に徳一によって開山されたという。

会津にも「大同2年(807年)に徳一によって開山」というお寺が沢山ある。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に関わった人だ。今まで調べてきて、私は、徳一は支配という意図を持って会津に入ってきたのではないかと思っている。

それまで栄えていた美里町の法用寺が出火したのも大同2年(807年)で、翌年に徳一が再建しているというのも、偶然にしては出来すぎているきがする。

会津の人は政治的なことが苦手そうだもの、と思う。

参考
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/dokugen0601.htm
http://yamayama.jp/toudou/toudou.htm

如法寺 鳥追観音

耶麻郡西会津町に大同2年(807)に、会津の西方浄土として徳一大師が建立した。

鳥追観音堂は、日本で唯一の東西向拝口、三方開きという珍しいお堂である。会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所。

大同2年(807)、徳一大師、というキーワードは、今まで何度も出てきた。

同年に徳一大師は磐梯町に慧日寺を建てている。この寺は後に会津仏教文化の発祥の地と言われ、最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられているそうだ。

さらに、湯川村には勝常寺を建てており、こちらは大本山クラスの大寺院である七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

720年から栄えた法用寺が火災で焼失したのも807年で、翌年に法用寺を再建したのも徳一大師と言われる。

こちらは空海(弘法大師)が建立したと言われるが、熱塩加納村に示現寺が建ったのも807年。

と、どうやら、如法寺の鳥追観音はもともとは天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫した際に、農夫に念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けたのが始まりのようだ。

行基は東大寺の「四聖」の一人に数えられ、日本で最初に大僧正になった人だ。奈良の東大寺などの大仏建立の実質上の最高責任者だったらしい。

行基は天平元年(729年)には、会津若松市の東山温泉に羽黒山湯上神社を当時は羽黒山東光寺として開山している。


参考
http://www.aizu-misato.jp/tt/index.php?paged=2
http://www.torioi.com/
http://www.aizu-reichi.gr.jp/torioi/

2014年2月2日日曜日

歴史に対する認識で思った事

いろいろ調べていると、会津には、東大寺に関わる優秀なお坊さんが沢山来ていた事が分かる。

若松の東山温泉にある羽黒山湯上神社を作ったとされる行基は、日本で最初に大僧正になったひとで、奈良の東大寺などの大仏建立の実質上の最高責任者だったらしい。

そんな人が、会津にいるわけがないだろうというのが、正しい日本の歴史の見解になるのではないだろうか。

美里町に法用寺と開いた徳道上人という人を調べると、西国三十三所巡礼は会津三十三観音巡りがルーツなのではという想像に行き着く。

そんなことは、これもまた、正しい日本の歴史から見れば、馬鹿じゃないのということだろう。

会津の古いお寺のルーツは、否定されそうな物が多いが、807年に徳一によって開かれた恵日寺は、開基が明らかな寺院としては東北最古のものになるらしい。

実際、会津には、近畿地方以外ではないような仏像が多く残っているようだ。

アメリカでは、今も、ダーウィンの進化論を否定する人がいるらしいが、歴史の認識とはそういうものなのかもしれない。

会津出身の人間としては、実際の所、会津藩以前の会津というものがどうだったのか、正しく研究され、世に出る日がきてくれたら嬉しいと思う。

丈部庭虫(人物)

神護景雲3(769)年3月13日、会津郡の住人、丈部庭虫、大伴部某に阿部会津臣の制が与えられた。

僧意外では初めて人名が出てきたので調べたい。この時期の会津は高寺が栄えていた時期だ。

丈部は豪族の伴部=馳使部(下働きの人々)を示すらしい。

丈部庭虫を検索して、最初にこのサイトを見つけた。毛野という賜姓の謎についてのサイトだ。
http://www.musubu.jp/manoshousei.htm

話がそれるが、小学校の時、ケノさんというあだ名の男の子がいた。佐野という名字の男の子と、ケノさんの名前の最初のひと文字を合体させて出来たあだ名だから、毛野という姓とは関係ない。

耶麻郡のある小学校での出来事だ。

上のサイトによると、毛野の勢力は耶麻郡→信夫郡→行方郡→宇多郡という経路にあるらしい。

耶麻郡は、今まで何度か書いてきた古屋敷遺跡の塩川町があるところだ。以前は耶麻郡塩川町で今は喜多方市になっている。

信夫郡は福島市のあたりで、行方郡は茨城県の千葉よりのあたり、宇多郡は福島県の相馬市の方だから、太平洋側の宮城県よりとなる。

毛野という賜姓については、つまり、福島県の新潟や山形に近い会津の耶麻郡から、中通りの福島県をへて、太平洋側に届いたという事だろうか。

ちなみに耶麻郡の小中学校に通ったけど、毛野という名字の人はいなかったと思う。

阿部さんはいた。

上のサイトによると、焼き畑に従事していた民のことと言う人もあり阿部氏に賜姓したそうだ。アベはアペ、アピ、でアピはアイヌ語で火のことであるという説があるらしい。


阿部氏が装飾古墳を残したという説もあるらしいが、耶麻郡の塩川町には常世竹花古墳や田中舟森山古墳といった古墳も多く残されている。

阿部になる前の丈部という名字は下働きの人々という意味で、杖刀人とよぶ大王の親衛隊長にあたるのが丈部(はつせかべ)なのだそうだ。

それでは、だれが丈部庭虫と大伴部某に阿部会津臣、阿部陸奥臣という名前を授けてたかというと、宮城県牡鹿郡出身の道嶋嶋足(みちしまのしまたり)という人らしい。

彼は、今日の宮城県牡鹿郡出身の人でありながら中央で近衛中将にまで昇り、現地では陸奥大国造を兼ねていたらしい。その彼が東北の有力者たちに中央貴族並みの氏姓の賜与を斡旋したそうだ。

こちらを参考
http://aizu.sub.jp/kawano/x2012_03.html

氏姓の賜与について、丈部は阿部臣へ、吉弥侯部(きみこべ)は毛野公(けぬのきみ)へ、大伴部は大伴連(むらじ)へ、というように、改名のパターンのようなものはあったらしい。

参考
http://www.kutikomi100.jp/index2/furusato/p/02.htm
http://www.musubu.jp/manoshousei.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E9%83%A1
http://aizu.sub.jp/kawano/x2012_03.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E3%81%AE%E9%96%A2

羽黒山湯上神社

若松の東山温泉にある。天平元年(729年)僧行基によって羽黒山東光寺として開山され、会津地方で最も古くから賑わった寺社のひとつ。

祭神は倉稲魂神。修験の中心地で、神社と寺とが混在した神仏混淆であったが、今では神社だけとなった。

行基は東山温泉と芦ノ牧温泉を発見したとも言われる。行基は天智天皇7年(668)年から天平21年(749)年まで生きた、日本の奈良時代の高僧だ。偶然にも今日2月2日は命日だが、これは旧暦のようで、新暦だと2月23日が命日となるらしい。生まれたのは677年という説もある。

東大寺の「四聖」の一人に数えられ、日本で最初に大僧正になった人のようだ。奈良の東大寺などの大仏建立の実質上の最高責任者だったらしい。

ウィキペディアによると740年から大仏建立に協力していたらしい。

正しい歴史では、会津に行基がいたとは認められないかもしれない。

しかし、会津では他にも高僧が活動していたようで、720年には徳道上人が美里町に法用寺を創建している。

徳道上人は日光を開いたとも言われる僧だが、調べると、西国三十三所巡礼にたどりつく。会津にも会津三十三観音巡りがある。美里町の法用寺の雀林観音(十一面観音菩薩)は会津三十三観音29番だ。

徳道上人は長谷寺を開いたと言われる人物で、長谷寺は奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺だ。長谷寺の本尊は十一面観音像ということで、これは会津の法用寺の雀林観音が十一面観音菩薩ということと一致する。

長谷寺はもともと東大寺(華厳宗)の末寺であり、会津に羽黒山湯上神社を開いたとされる行基も東大寺の「四聖」の一人に数えられる僧ということで、東大寺に縁のある僧だ。

時代が少し進んだ807年には奈良東大寺の法相宗の高僧である徳一大師が会津の磐梯町に慧日寺を開いている。慧日寺は開基が明らかな寺院であるから、東大寺の僧が会津とつながりを持っていたのは事実と言える。

中国の梁の高僧、青岩に540年、後の高寺となる高山無山寺を結び、 634年に恵隆が高寺に堂塔伽藍を建立、辺地域を支配するほどの一大伽藍や36坊もの堂宇を擁していたとすれば、奈良の高僧を迎える土壌は会津にはあったのかもしれない。

元の高寺、今の恵隆寺のご本尊も十一面千手観音菩薩であり、会津三十三観音31番となっている。

参考
http://www.walkerplus.com/spot/ar0207s30296/
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA
http://www.aizue.net/wakamatusi/tera-higasiyama.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%9A%86%E5%AF%BA

会津磐梯山の噴火

806年(大同元年)に噴火し、それまで2,000m以上あった富士山型の山から、1888年噴火前の形になったという。富士山型の山の崩壊については有史以前からの何度かの噴火によるものとの研究も有力である。

噴火の翌年、大同2年(807)年に徳一大師が磐梯町に慧日寺、湯川村に勝常寺を創建、同年、空海が熱塩加納村に五峰山慈眼寺(示現寺)を作ったとされる。

磐梯町は会津磐梯山から近いが、噴火はどの位の規模だったのだろう。

と調べていたら、興味深いサイトを見つけた。
http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu023.htm

このサイトによると、空海が唐から帰国したのは805年となっている。すると、807年に五峰山慈眼寺(示現寺)を熱塩加納村に作った話や、808年に恵隆寺で立木観音を彫った時期と、全くつじつまが合わない訳ではないけれど、帰国してすぐ会津に来たような感じになる。

空海は密教様式が全てという考え方だったようで、坂下町の立木観音のある恵隆寺には密教様式密教様式を忠実に表現した侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像が現在も残っている。

磐梯山が噴火した翌年に磐梯町に徳一は慧日寺を作ったのだろうかという謎は、会津磐梯山の噴火を鎮める為の恵月守を徳一大師が建立したことが歴史上は明らかだというところから、解けそうだ。
http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu024.htm

この噴火のあと、会津には徳一の寺が沢山出来る。それらは、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている慧日寺や、七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる勝常寺など華やかな物であるが、どこかきな臭く感じる。

地元の有力者に守られて共存していたであろう、高寺の時代とは、雰囲気が変わって行ったのではないかと推測する。

時代の変わり目に噴火するのか、磐梯山は1888年(明治21年)にも噴火している。戊辰戦争で負けて、また、会津が不遇の時代を迎えたときだ。

しかし、この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害であり、政府が国を挙げて調査、救済、復旧を実施したらしい。

学術的調査としては、当時としては珍しいアンケートの手法が採られており、かなり詳細な噴火の経過や被害状況、写真が収集され論文としてまとめられているとのこと。

復旧に当たっては義援金は3万8千円(現在の貨幣価値で約15億円に相当)が集まり、復興を支えた。また、噴火前年の1887年に結成された日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初の平時救護(それまでは戦時救護のみ)ともなった。

ちなみに日本で一番古い年金制度はウィキペディアによると明治8年(1875)年の軍人への恩給だが、会津では1663年に身分を問わず90歳以上の者へ養老の玄米が支給されたらしい。

庶民のための学問所としては日本最古のものと言われる稽古堂跡は寛文4年(1664)会津藩主保科正之のとき、横田俊益が創立。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E6%A2%AF%E5%B1%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/807%E5%B9%B4
http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu023.htm
http://tachikikannon.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%87%91
http://www.aizue.net/index.html
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/shiseki/keikodoato.html

愛宕神社

若松の東山温泉にある神社。創建は天応元年(781)、会津門田の庄小田の里谷池沼に棲み付いた大蛇が住民に悪さをした為、玉泉(三河国の修験者)が愛宕神社の分霊を勧請したのが始まりとされる。三河国は現在の愛知県。

会津では、775年に坂下町の高寺から出火する事件が起きている。高寺は540年に開かれ数千の僧がいたとされる伝説の寺。

その三年後の778年に西会津町に大山祇神社が創建、翌779年には美里町に薬師寺が出来てる。

そして、三年後に若松に愛宕神社が作られた。愛宕神社は、愛知の修験者が大蛇を退治して建てたようだから、政治的な意図はなさそうだがどうだろう。

ちなみに愛宕神社が出来て2年後の783年は、807年に会津に沢山の大寺院を作る徳一大師が会津に来た年とされる。

愛宕神社が出来た当時の会津には愛知から修験者が訪れていたり、東大寺の僧であったとされる徳一大師が訪れていたということらしい。

そして、愛宕神社が出来てから3年後の784年には会津に流星群が降り注いだという。会津で流星群が降り注いでいだ784年、京では平城京から長岡京に遷都され、794年まで首都となった。

愛宕神社は現在でも信仰をあつめ、直江兼続縁の神社とされ、土方歳三も訪れており、隣りの天寧寺に近藤勇の墓がある。


参考
http://www.aizue.net/index.html
http://kaidou.mitsu-nari.com/fukusima/atago.html
http://aizu.tv/?p=638

法用寺

美里町にある。寺伝によれば720年(養老4年)得道によって創建され、大同2(807)年に火災で消失し、翌年の大同3(808)年に徳一大師が現在の地に再建したらしい。

720年に寺を創建した得道は、徳道ともいい、後に日光を開いた人らしい。

寺を再建した徳一といえば、807年に磐梯町に慧日寺や、湯川村の勝常寺、今もあわまんじゅうが有名な福満虚空藏尊圓藏寺を作った人だが、それ以前からあった寺には火を放ったのだろうか。

法用寺は、徳一が作った慧日寺が隆盛するまでは、大いに栄えたという。

慧日寺が隆盛するまで栄えた寺と言えば、伝説の高寺もそうらしい。高寺も内紛のようだけど、宝亀6(775)年に出火したようだ。

それで、延暦23(804)年、僧の利仁が中興したらしい。

高寺は欽明天皇元(540)年に中国の高僧である青岩が庵を結んで栄えた寺で、後の恵隆寺だ。恵隆寺の立木観音は空海の作とされる。

ちなみに空海は徳一が勝常寺などを建てたのと同じ807年には熱塩加納村に示現寺をたてている。

慧日寺は会津仏教文化の発祥の地となっているようだけど、すでに540年には中国の高僧の青岩が坂下にいたことや、605年又は652年に役小角と唐僧・知道和尚が飯豊山神社を作ったことを考えると、なにか、徳一は侵略者だったのかという気がしてくる。

それというのも、古墳や遺跡がある、地元に根付いた昔からの権力者がいったであろう、若松、坂下、塩川には、徳一が寺を作っていない。伝説の高寺は坂下に栄えた寺だ。

若松、坂下にはそれぞれ、東北第4位と第2位の古墳がある。塩川には5世紀後半から6世紀初頭に大豪族がいたあとの古屋敷遺跡がある。発掘されていないが、東北地方最大の前方後方墳の可能性がある田中舟森山古墳もある。

勝常寺が出来た湯川村は、若松、坂下、塩川のちょうど真ん中で会津平野の中心のような場所だけど、福満虚空藏尊圓藏寺がある柳津町や恵日寺がある磐梯町は、会津の平野部ではなく、山間の場所だ。空海が示現寺を作った熱塩加納村も山間だ。

807年以前に栄えた仏教文化を壊滅させて、807年に会津に寺を乱立させたのが徳一という雰囲気になってきた。とはいえ、彼が作った寺は栄えて、今でも会津で信仰を集めているから、いいんでしょうが、どうなんだろう。

ちなみに法用寺がある美里町は徳川幕府に関わった天海大僧正の出身地。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%94%A8%E5%AF%BA
http://www.aizue.net/sityouson/aizubange.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80

福満虚空藏尊圓藏寺

柳津町に大同2年(807年)法相宗徳一大師によって開創されたと伝えられる。1本の霊木が流れ着いたことから福満虚空蔵菩薩が出来たと言われる。

同じ大同2年(807年)に法相宗徳一大師によって作られた寺と言えば、磐梯町に、開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のものである恵日寺と、仏像が国宝に指定されている湯川村の勝常寺がある。

福満虚空蔵菩薩の開運撫牛はあかべこのルーツとも言われる。

奥乃院の境内の弁天堂は室町時代中期・応永年間(1,394~1,428年)建立。国指定重要文化財となっている。

柳津本町は只見川と銀山川の合流点にあり、昔から水難に遭うことがしばしあったため、弁財・福智・延寿・除災・得勝をつかさどる天である弁財天が祀られたものと考えられ、弁天堂の名称となっている。

伊佐須美神社の事を書いた時、あわまんじゅうはどこだったかなと思ったら福満虚空藏尊圓藏寺だった。


参考
http://www.town.yanaizu.fukushima.jp/s_map_kokuzo.php
http://www.aizu-reichi.gr.jp/ennzou/

田中舟森山古墳

塩川町にあるの古墳。東北地方最大の前方後方墳である可能性があると言われているらしい。出土した埴輪と土師器から4世紀前半の築造と想定される。

全長90mの前方後円墳。後方部から墓壙(南北6.4m・東西7.7m)南北方向に長軸をもつ長軸円形の主体部(粘土郭・被葬者の埋葬部)を発掘。確認。出土品は鉄剣・円筒埴輪・古代土師器片が少量出土されているらしい。

塩川町の隣町の坂下町に福島県内では最大で、東北地方では宮城県名取市の雷神山古墳に次ぐ第2位の規模の亀ヶ森古墳がある。

若松市には東北地方では第4位の大きさの大塚山古墳があり、日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出されたそうだ。

この田中舟森山古墳の近くには常世式土器の常世原田遺跡がある。縄文時代早期の遺跡は小規模な場合が多いらしいが、常世原田遺跡からは土器、土偶、石器は多量に出土するらしい。常世竹花古墳もある。

そして、この古墳時代のあとの世紀後半から6世紀初頭の古墳時代中頃には古屋敷遺跡の時代がある。

古屋敷遺跡は、現在確認されている古墳時代の豪族 (首長)居館関連遺跡の中でも国内最大級の規模で、当時の政治・軍事・経済の中心地。本遺跡の施設規模から、富の集積と強大な政治・軍事力をもつ権力者の存在が想定されるらしい。

塩川町に大きな古墳があったとしても不思議ではない。

塩川の青津には、その昔、豪族が住んでいて、高寺山のてっぺんにあった高寺を擁してしたという説もあるらしい。

高寺は坂下町にあったと言われる。欽明天皇元(540)年、中国、梁の高僧である青岩が庵を結び、後に高寺と呼ばれ隆盛を誇った寺。

現在は恵隆寺となっている。弘法大師(空海)が掘ったとされる約8.5mの立木観音と30体の眷族の像が今も残っている。

参考
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tohoku/fukusima/40_sokw/nakayasawa2.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E3%83%BB%E8%88%9F%E6%A3%AE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
http://www.k3.dion.ne.jp/~skill/page014.html
http://ultra-kaso.cocolog-nifty.com/photos/kannon/100_0582_1.html

ちょっと一息

私の出身地であり、親戚もほとんど会津の人である事から、私のDNAの大部分といってもいいような福島県会津地方に、なにがあるのかないのかを調べたら、いろいろ出てきて驚いた。

正しい歴史に照らし合わせれば、全てが荒唐無稽。しかし、会津に残る事実と照らし合わせれば、つじつまがあってくるという面白さがあった。

私の家は、ご先祖様は農家で、実家も会津若松市ではないので、戊辰戦争、会津藩、武士、といったキーワードとは縁がない。

しかし、そうであっても会津という土地を誇りに思う気持ちは強く、それは、会津藩から始まった訳ではなく、それより以前から脈々と流れている血のなかにあるのではないかと、ここまで調べて思った。

常光寺

会津若松にあるお寺。慶雲3(706)年、律宗の寺として草創。元和9(1623)年、天海大僧正により天台宗へ改宗。総本山は比叡山延暦寺。

寛政3(1791)年には、劇場人形座が建設され、盆踊り、見世物小屋、相撲、サーカスなど大勢の人で賑わったのこと。

1791年はフランス革命がおこった年で、日本では、江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉の時代。江戸幕府は1867年までとのことで、江戸時代の会津はサーカスまでみれたとは驚きだ。

今まで調べた中で、会津のお寺といえば807年が注目の年で、沢山大きなお寺が出来た時期だということが分かった。美里町の慧日寺や湯川村の勝常寺が徳一大師によって、五峰山慈眼寺(後に示現寺)が空海によってたてられた。

常光寺は、それより100年早い。しかし、当時どういうお寺だったのか、ネットで調べても、心温まるエピソード位しか出てこない。

京都の茶問屋の父が、出奔した長男を探そうと日本中を巡り、ここ会津の常光寺で出されたお茶が家伝のお茶と同じ香りと味だったので、そのお茶を入れた修行僧が長男だとわかったというもの。
http://www.aizukanko.com/model/351/

706年のエピソードはどうしたということで、律宗を調べた。律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派だそう。中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったらしい。

会津には奈良、京都よりはやく仏教が入ってきた説があることを、立木観音(恵隆寺)を調べたときに知った。仏教が伝来したのは552年説と538年説があるようで、538年説が有力なようだが、540年には坂下町に中国、梁の高僧である青岩がいて、庵を結んだというもの。

605年、もしくは652年に中国渡来の僧である知道と修験道の開祖である小角が飯豊山神社を開いた事からも、常光寺が出来た706年より前に既に、会津には中国人の僧が来ていたという可能性が伺える。

そして、律宗の寺である常光寺が706年にできた事が、中国と会津の結びつきというか、奈良、京都を通さない仏教のあり方の可能性の出現という感じがした。

ウィキペディアには、天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に、唐から招来し、東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。と書いてある。

律宗の総本山である唐招提寺は天平宝字3年(759年)に奈良市に鑑真が建立したとあるから、それより50年前に会津に律宗の寺があったことになる。

もし、そういう、奈良、京都を通さない仏教の発展が会津にあったとしたら、ロマンがある。


参考
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E5%AE%97
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA

蚕養国神社

弘仁2(811)年に草創された日本で唯一の養蚕に関する神社。会津若松市にある。

このころの会津と言えば、807年に徳一大師によって、美里町の慧日寺や湯川村の勝常寺、空海によって五峰山慈眼寺(後に示現寺)など、高僧によってお寺が沢山たてられた時期だ。

しかも、慧日寺は最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていわれるし、勝常寺は大本山クラスの大寺院である七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

示現寺は永和元年(1375年)、源翁心昭が護法山示現寺として再興し、奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立したらしい。

そんな大きなお寺が沢山たてられていた同時期に、神社も作られていた。

延喜式神名帳とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧のこと。この延喜式神名帳に蚕養国神社は陸奥一百座の一つとして記載されているらしい。

祭神は、保食大神(うけもちのおおかみ)、稚産霊大神(わくむすびのおおかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。


弘仁2(811)年は第五十二代嵯峨天皇の時代とのこと。

第五十四代仁明天皇承和年中に、 官社に列せられ、醍醐天皇の御代延喜式選定の折、式内の社となった。

仏教の影響が会津を支配していたのかと思いきや、天皇という存在も、9世紀の会津には届いていたらしい。この神社が作られた811年は、三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討が終わった年だ。

そんな、戦火の中、若松には養蚕に関する神社が出来ていた。なんとも平和だ。

一説には、これらの神社は、養蚕のために祀られたものではなく、養蚕という産業を興すために祀られた神社であるともいう。らしい。
http://www.genbu.net/data/mutu/kogaikuni_title.htm

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E9%A4%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.aizue.net/index.html
http://www13.plala.or.jp/kogaikunijinja/

手兒神社(てごじんじゃ)

欽明天皇13(552)年、伊佐須美神社が明神ヶ嶽から遷座の際、同じく遷座されたという。伊佐須美神社と縁故の深い神社。祭神は須佐能乎命すさのおのみこと。

伊佐須美神社も、この手兒神社も美里町にある。美里町はで徳川家康の懐刀として江戸の都市造りにあらゆる手を打った天海大僧正の出身地でもある。

島根の出雲と会津はどこか似ているなとこちらのサイトをみて思ったが、出雲国では尊敬される須佐之男命が手兒神社の祭神だ。
http://www.iokikai.or.jp/kodai.izumo.html

伊佐須美神社はなんとなく、他の会津の神社やお寺とは語感が違う気がする。出雲の須佐之男命終焉の地、須佐神社と何となく似た感じだ。

手兒神社は長く荒廃していたのを、享禄2年(1529)宗輔なる人が再興したらしい。


参考
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-te.htm
http://www.aizue.net/index.html

慧日寺

会津仏教文化の発祥の地。平安初期の大同2(807)年、徳一大師が、五薬師の1つとして開創した。開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のもの。

徳一大師は奈良東大寺の法相宗の高僧。

徳一大師、807年というキーワードは今まで何回も出てきた。

湯川村の勝常寺も徳一大師が807年に開いたとされる。勝常寺は大本山クラスの大寺院である七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

熱塩加納村の示現寺も807年に空海が五峰山慈眼寺として建立したという。

示現寺は、大同2(807)年、空海が五峰山慈眼寺として建立したあと、永和元年(1375年)、源翁心昭が護法山示現寺として再興し、奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立したらしい。

徳一大師は空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。この二人が同じ年に会津にそれぞれお寺を作ったということようだ。

密教というと、立木観音だ。脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は密教様式を忠実に表現しているそうだ。身丈8m50cmの本尊は弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け彫刻したと言われるらしい。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われるらしい。

立木観音がある恵隆寺は、540年に中国、梁の高僧である青岩が庵を結び、後に高寺と呼ばれ隆盛を誇るも、慧日寺の興隆により衰退したらしい。

ここで慧日寺と繋がった。

慧日寺は最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられているそうだ。現在は恵日寺として明治37(1904)年に復興されたらしい。山門は、平将門が寄進したと伝えられ、将門自身も慧日寺に帰依していたと伝えられる。乱で討ち死にした後は、娘の滝夜叉姫が身を寄せたそうだ。

平将門の死没は940年、その後、美里町出身で徳川家康の懐刀として江戸の都市造りにあらゆる手を打った天海大僧正は、江戸の守護神として平将門の部位を要衝に配置したらしい。江戸幕府が出来たのは1603年。

なんで会津なんていう田舎のお坊さんが徳川幕府で活躍したんだろう、すごいなと、思っていたけど、天海大僧正が突出してすごかった訳ではなく、彼を生む土壌が会津にはあったのかもしれない。

ちなみに天海大僧正が、得度したといわれる寺が美里町の龍興寺で、そこには天海の両親墓がある。龍興寺は最澄の弟子であり最後の遣唐使として天台宗を完成させた慈覚大師(円仁)が嘉承元(848)年に草創した名刹。平安時代後期の「一字蓮台法華経開結共」は、国宝に指定されている。


参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80
http://www.aizue.net/sityouson/bandaimati.html
http://www.aizue.net/index.html

出雲の国

喜多方市の出雲神社を調べているときに、本家の島根県の出雲神社の興味深いサイトを見つけた。
http://www.iokikai.or.jp/kodai.izumo.html

出雲王国の事が書いてある。8世紀の大和朝廷が、出雲王国を、実在の物ではなく神話にしてしまったという事。なんとなく、会津も似た気配がする。会津にだって5世紀後半から6世紀初頭には古屋敷遺跡という、富の集積と強大な政治・軍事力をもつ権力者の存在があったようだ。

会津は、猪苗代町や坂下町の名前がアイヌ由来という説もあり、どちらかというとアイヌ由来の言葉が多いのかなと思うけど、伊佐須美神社という、何となく他とは雰囲気が違う名前の神社が美里町にある。祭神は伊佐須美大明神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命)

出雲の須佐之男命終焉の地、須佐神社と何となく似た感じだ。

さらに、葦原中国(出雲王国)という言葉が出てくるが、常世竹花古墳の時に調べた、「少名毘古那」という神が常世国から来て葦原の名つ国を造ったとあるという文言とも繋がってくる。

ちなみにスクナヒコ(少名彦、少名彦名、少名毘古、などの表記がある)すくなひにはアイヌ語方面と関わりがあるらしい。

仮に、会津の常世の人が、新潟から海に出て出雲にたどり着いて、国づくりに参加したとすれば、会津人の気性なら、そこで権力を持とうと考えず、ではここで、と身を引くのは、あり得る話のような気がする。地元に帰りたかったのだろう。

島根県では56面出土しているという三角縁神獣鏡は、若松の4世紀末の築造とされる大塚山古墳からも出土している。若松の物は、岡山と福岡の古墳から出土した物と類似しているそうだが、島根のものはどうなんだろうか。

さらに、上のサイトの西谷墳墓群の項目では、紀元1世紀初めに出雲で出来た四隅突出型墳丘墓が、東北南部の会津若松で発掘されていると書いてあるから、会津と出雲に、そのころからつながりがあった事は事実のようだ。

4世紀半ばになると、出雲でも前方後円墳が作られるようになって、大和政権に服従した証拠となるそうだ。同時期に会津では坂下町の鎮守森古墳や、若松の堂ヶ作山古墳、飯盛山古墳が作られている。


参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A
http://homepage2.nifty.com/aizune/iwahashi-jinja.html
http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm

2014年2月1日土曜日

出雲神社 安倍晴明が会津に来ていた説

会津出身の私が会津を馬鹿にしている訳ではないけど、さすがに本当かなと思ってしまうのは、教育のせいだろうか。

会津の出雲神社は喜多方市にある。社伝によると、天慶年間(938~947) に平将門の残党が逃れて来て住みついた。正暦年間(990~995)、陰陽師/安倍清明がこの地にやって来て、出雲の神を総鎮守に「国土開墾の神」として祀り、総社神社を創建したという。

いろいろ調べると、会津は平家側についたようだから、そういう関係なんだろうか。平家とか、その辺の歴史は全然知らないけど、平将門の娘が会津に逃れてきていたと、さっき、どこかのサイトで見た気がする。けど、忘れた。この記事を書く間に出てくるだろうか。

安倍晴明は平安時代の陰陽師で、921年から1005年の間を生きた人のようだ。

時代は違っても、中国の高僧の青岩が、540年に数千の僧を有する寺だった高寺(後の恵隆寺)を開いたり、知道が7世紀に飯豊山神社を開いていて、さらに高僧である徳一と空海が同じ807年に、それぞれ勝常寺や示現寺(五峰山慈眼寺)を開いたりしていたとすれば、安倍晴明にとっても会津は興味深い土地だったのかもしれない。

平家の事を調べていたら、恵日寺が出てきた。磐梯町にある。かつては慧日寺(えにちじ)と呼ばれたらしい。徳一が807年に開いたらしい。東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のものとして知られているそうだ。

徳一は、湯川村に勝常寺を807年に開いたとされるし、空海は、熱塩加納村に現在の示現寺を五峰山慈眼寺として、同じ807年に建立したとされている。

徳一大師は783年から会津に居住していたららしい。お墓が恵日寺(慧日寺)にあるようだ。徳一大師は最澄や空海という有名なお坊さんと論争をした人のようだ。

その慧日寺が平家についたようだ。平安時代末期には僧兵数千人を動員する勢力があったらしい。高寺(後の恵隆寺)を調べたときも、会津には数千の僧がいたということで、会津は相当お坊さんにゆかりがあるらしい。日本で5番目にお寺の多い地域だということだから、そういうことなんだろう。

慧日寺と平将門の記述をやっと見つけた。将門自身も慧日寺に帰依していたと伝えられ、乱で討ち死にした後は、娘/滝夜叉姫が身を寄せたらしい。平将門の死没は940年。
http://www.aizue.net/sityouson/bandaimati.html

それで安倍晴明はなんで会津に来たのだろうか。と調べたら、興味深いブログを見つけた。結界を張りにきた説。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/b29062e6ff4beeafe6e8c031c1856cb2

ちなみに、美里町出身で徳川家康の懐刀として江戸の都市造りにあらゆる手を打った天海大僧正は、江戸の守護神として平将門の部位を要衝に配置したとのこと。江戸幕府が出来たのは1603年。
http://www.aizue.net/todoufuken/toukyou-goen-ti.html#masakado

参考
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%97%A5%E5%AF%BA_(%E7%A3%90%E6%A2%AF%E7%94%BA)
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80
http://www1.town.bandai.fukushima.jp/kanko/enichiji/index.htm?sess=fc272eec9018e1c749b36ed75929a1fc
http://www1.town.bandai.fukushima.jp/kanko/enichiji/enichiji_0206070809.htm
http://www.aizue.net/sityouson/bandaimati.html

飯豊山神社

飯豊山神社は、飯豊連峰の飯豊山南峰にある神社だ。

白雉3(605)年、中国渡来の僧である知道と修験道の開祖である小角が創建したとされる。サイトによっては652年に役小角と唐僧・知道和尚によって開山されたともある。

ご神体は飯豊山そのものであり、主祭神は五社権現。

霊峰・飯豊山は古来から神の山とされる。秋が終わると飯豊山が雪化粧になって、それから冬がくるという感じだ。

540年に坂下町で中国の高僧、青岩が高寺(後の恵隆寺)を起こしているとすれば、その後も中国の僧が会津には沢山きていたという事だろうか。当時は数千の僧が会津にいたとされるから、中国の僧が青岩だけでなく、他にもいたとしても、おかしくはないのかもしれない。

高僧である徳一、空海、行基に起源を求める説や永保年間(1081年から1084年)、後に山伏になった南海、知影の2人の猟師によって開かれたとの説もある。

徳一は、湯川村に勝常寺を807年に開いたとされるし、空海は、熱塩加納村に現在の示現寺を五峰山慈眼寺として、同じ807年に建立したとされている。

会津盆地の平野部からは、北に飯豊連峰、東に磐梯山が見える。若松からだと、磐梯山は北東、喜多方からだと南東か。そういう感じの配置だ。


参考
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.raifuku.net/dic/kyoju/ky_051103_01.html
http://www.kitakata-kanko.jp/iidesannomegumi/outline/history.php

示現寺

大同2(807)年、空海が五峰山慈眼寺として建立したという喜多方市の寺院。喜多方市になる前は熱塩加納村だったところだ。

807年といえば、湯川村の勝常寺が開かれた年だ。湯川村の勝常寺には多くの平安初期の仏像が一ヵ所に保存されいてる。創立された当時は、七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる寺院だ。

示現寺は、大同2(807)年、空海が五峰山慈眼寺として建立したあと、永和元年(1375年)、源翁心昭が護法山示現寺として再興し、奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立したらしい。

サイトによっては永和元年(1375年)開山という書かれ方もしている。

ただ、熱塩加納村と同じく今は喜多方市になっている塩川町には5世紀後半から6世紀初頭に栄えた、現在確認されている古墳時代の豪族 (首長)居館関連遺跡の中でも国内最大級の規模の古屋敷遺跡もある。

喜多方市に隣接している坂下町では、中国の高僧、青岩が540年に高寺(後の恵隆寺)を起こし、数千人の僧侶がいたと言われることもふまえると、807年に空海が来ていても不思議ではないような気がする。

恵隆寺の身丈は約8m50cmの本尊は、弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻したとも言い伝えられる。

現在の喜多方市に隣接する湯川村の勝常寺が807年に徳一上人によって開かれたということもある。

徳一上人が空海に対して密教についての疑義を提示したのは会津の地だったのかもしれない。

室町時代作の笈(仏像、仏具、経典などを収納し背負う箱)の椿彫木彩漆笈(つばき ちょうもくさいしつ おい)が重要文化財らしい。

参考
http://www.aizue.net/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BA%E7%8F%BE%E5%AF%BA
http://www.fukutabi.net/fuku/kitakata/jigenji.html

日本で5番目にお寺の多い地域の会津

うちの実家は、お寺とけんかして神道になったらしい。うちは分家で、本家が神道にした感じだけど、もしかしたらうちの家業を起こした曾祖父の代からそうなったのかも知れないし、詳しくは分からない。

ただ、私には、新宮熊野神社の付近の血が入っている。そこには最盛期には100人以上の神官がいたらしい。

一方で、540年に中国の高僧、青岩が高寺(後の恵隆寺)を起こし、数千人の僧侶がいたという坂下町の血も入っている。そして、スピリチュアルカウンセラーや占い師には、仏様に守られていると言われる。

だから、あんまり危ない目にはあった事がないし、大病もせず、傍目には、東京で気ままに、恵まれた人生に見えるのかもしれない生き方をしている。でも、本人は、スピリチュアルや占いにすがりつかないと生きていけないほど、毎日絶望して生きている。

占い師やスピリチュアルカウンセラーに、家の呪縛ということを指摘されて、自分でもそれを意識して生きていて、でも、ルーツは農家の実家に、なにがそんなに呪縛があるのだろうと、会津の歴史を調べると、びっくりするほどスピリチュアルな地域であるようだ。

戊辰戦争とか、会津藩とか、武士は、私にはほとんど関係がなさそうだけど、それ以前の会津という地域の謎や由来のというものが、呪縛なんだろうか。

恵隆寺の立木観音は、立木のまま彫刻された木像としては日本最大級らしい。約8.5mの高さだ。

それだけでなく、2m近い眷属の木像30体も揃っており、密教様式を忠実に再現されているらしい。こういう物があるのは京都の三十三間堂と立木観音のある立木観音堂だけらしい。

坂下町の隣村の湯川村にある勝常寺は807年に開かれた。創立された当時は七堂伽藍が備わり、多くの附属屋、十二の坊舎、百余ヵ寺の子院を有する一大寺院があったらしい。

勝常寺には30余体の仏像があり、うち12体は平安時代初期のもので、おそらく創建時に造立されたものと思われるそうだ。薬師如来坐像、月光菩薩立像、日光菩薩立像は国宝に指定されている。

平安時代以前の仏像が一寺院にこれだけ多数残っているのは畿内の寺院を除けば非常にまれだという。そのことからも、仏教が栄えた地であることは事実のようだ。

お寺も多いし、古墳も多い。540年に中国の高僧、青岩が高寺(後の恵隆寺)を起こしたと言われる坂下町には、亀ヶ森・鎮守森古墳がある。

亀ヶ森古墳は宮城県名取市の雷神山古墳に次ぐ第2位の規模の古墳らしい。古墳時代前期を通じて古墳が継続的に築造された地域は、大和などの中枢を除けば列島内を見渡してもほとんどないとのこと。

坂下町だけでなく、会津若松市にも古墳は多いようで、4世紀末の築造とされる大塚山古墳からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出されたそうだ。さらに若松では4世紀前半頃には全長84mの堂ヶ作山古墳、全長65mの前方後円墳である飯盛山古項が作られている。

塩川町には常世竹花古墳がある。塩川町には土器、土偶、石器は多量に出土するらしい常世原遺跡や、現在確認されている古墳時代の豪族 (首長)居館関連遺跡の中でも国内最大級の規模を持つ古屋敷遺跡もある。

古墳はお墓なので、死というものに対する会津の人たちの考え方は、仏教が入る前から、独特の物があったのかもしれない。


参考
http://nakata.net/rnp/area/9258/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B8%B8%E5%AF%BA
http://www.vill.yugawa.fukushima.jp/kyouikuiinkai/historic.html

常世竹花古墳

縄文時代の「常世式」土器の常世原田遺跡があるのと同じ塩川町に常世竹花古墳がある。

未調査で、築造時代・墳形等は後世の破壊があるので詳細は不明らしい。

とはいえ、常世竹花古墳の辺りは中世城館跡とされているらしい。中世は、古墳時代よりは跡の時代だ。縄文時代から栄えていたこの地が中世も引き続き栄えていたということだろうか。

(神話に「少名毘古那」という神が常世国から来て葦原の名つ国を造ったとある)名の通り由緒ある古墳かも?と、こちらのサイトからの引用。
http://www.k3.dion.ne.jp/~skill/page010.html

少名毘古那は日本神話の神様だ。「古事記」では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、「日本書紀」では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

日本神話の神様が東北の縄文人だったとなれば、歴史の学会の偉い人は、とんでもないといいそうだ。

ウィキペディアのスクナビコナ(少名毘古那)の項目にも常世という言葉が出てくる。悪童的な性格を有していたそうだが、なんとなく、地元の人間として、それは分かる気がする。なんとなくでしかないけど。まあでも、海から来訪したという事らしく、会津には海はない。

あるとしたら、塩川町の日橋(にっぱし)川から阿賀野川に合流して、新潟から海に出たとか、まあ、不可能ではない。川で海に繋がっているし、昔から会津は新潟との交流は盛んだったようだ。

この前テレビで、日本という名前はもともと東北の国の名前だったとやっていたけど、にっぱし、にっぽん、そういう発音が東北にはあったのかもしれないと思うと、ロマンが広がる。


発音つながりで、スクナヒコ(少名彦、少名彦名、少名毘古、などの表記がある)すくなひにはアイヌ語方面と関わりがあるらしい。

塩川町の隣の猪苗代町の磐椅神社も、猪苗代の地名の語源であるアイヌ語からアイヌの人々の祈りの場所であったという見方もあるようだ。

古事記ではスクナヒコは「天羅摩船に乗って鵞の皮を内剥に剥いだ着物を着て」やってきたそうだ。海から来たといっても、毛皮の着物は山の人と言ったら強引だろうか。


参考
http://www.k3.dion.ne.jp/~skill/page010.html
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tohoku/fukusima/40_sokw/sonota.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%B3%E3%83%8A
http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm
http://homepage2.nifty.com/aizune/iwahashi-jinja.html

蝦夷征討

蝦夷征討について、ウィキペディアに書いてある事を中心に、ざっと理解を深めたい。

会津地方は、福島県の一地域で、南東北だ。関東以北が対象のようなので、まあ、蝦夷といっていいんじゃないかと、蝦夷という前提で調べたい。

5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した文章の中に日本についての記述があるという。

昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

よくわからないが、478年には、もう中国人は日本中に来ていたという解釈でよいのだろうか。540年には坂下町に中国、梁の高僧、青岩が恵隆寺を起こしている。

中国の高僧といったら、当時、国の賓客なんじゃないかと思うけど、実際、蝦夷征討とは、どの程度正しい認識なのだろう。

宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討があったらしい。

湯川村に七堂伽藍が備わったと言われる常勝寺が出来たのが開かれたのが807年だ。蝦夷征伐の時代の真っ最中に、南東北には仏教の大学が出来て、十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院が栄えていたことになる。

でも、その頃、5、6世紀に湯川村の近くで栄えていた古屋敷遺跡はどうなったのだろう。蝦夷征伐が始まったのがウィキペディアの年表の西暦があるのが、581年からだから、早めに取り潰されてしまったのだろうか。712年には出羽国が設置されたようだが、ここには福島県は含まれていない。山形県と秋田県が出羽国と呼ばれるらしい。

年表の最後は1320年だ。1268年には津軽の蝦夷反乱という項目があるから、その頃には青森まで征伐は進んだようだ。

会津では、蝦夷討伐の一環で、1055年に源頼義が会津に熊野神社を勧進している。喜多方市の新宮熊野神社の長床は現在も国の重要文化財になっている。最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたという。12世紀末に一時衰退、16世紀後半には不遇な時代を迎えたらしい。

まあでも、蝦夷討伐が続いている頃には、栄えていたようだ。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%BE%81%E8%A8%8E

勝常寺

湯川村の勝常寺は国の重の指定文化財に指定されている。木造薬師如来及び両脇侍像は国宝だ。勝常寺は大同2年(807)に伝教大師の論敵として有名な法相宗の碩学徳一上人によって開かれたらしい。

湯川村は地理的には亀ヶ森・鎮守森古墳などの古墳がたくさんある坂下町や、国内最大級の規模をもつ古屋敷遺跡がある塩川町(現在は喜多方市)、若松市にも隣接している。地理的には、会津盆地の平野部の中心と言えるような場所かもしれない。

坂下の古墳は4世紀後半から5世紀の築造、塩川の古屋敷は5世紀から6世紀で、勝常寺は9世紀。11世紀頃になると、関西の政治的に力を持った人たちが会津に来て、新宮熊野神社を建設したり、関西の影響が強まっているようだ。

常世原田遺跡の出土品から、縄文時代から人々が大規模な集団を作っていたらしい会津では、古墳や古屋敷の時代は、まだ地元の人たちで栄えていて、7世紀頃から10世紀頃にかけて、何かが大きく変わったのではないかと思う。勝常寺が出来たのは、9世紀だ。

ちなみに、会津には、仏教が伝来されたとされる538年の2年後に中国人の僧である青岩によって恵隆寺がたてられており、そこには、京都の三十三間堂と恵隆寺だけと言われる、8mを越えるご神体と、密教様式を忠実に再現した2m弱の身の丈をもつ眷属30体が揃っている。

恵隆寺が栄えた時代、会津には数千人の僧がいたとされる。国内最大級の古屋敷遺跡の時代のことだから、全く信憑性がない話ではない。

仏教の地として栄えたのかもしれない会津の、地理的には、中心とも言える、会津盆地の平野部にある湯川村に、創立された勝常寺は当時、七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

伽藍とは、僧侶が集まり修行する場で、寺院のことらしい。七堂伽藍とは、大本山クラスの大寺院の代名詞として使われる言葉だそうだ。

9世紀の当時は、七堂伽藍は全国に作られていたようだが、湯川村の勝常寺には多くの平安初期の仏像が一ヵ所に保存されいて、我が国では珍しいらしい。


参考
http://www.vill.yugawa.fukushima.jp/kyouikuiinkai/bunkazai_01_kenchiku.html
http://www.good-stone.com/hp/top/qa/qa-84.htm

いろいろ調べて思った事

会津の観光資源は、思ったより多いと思った。

会津というと、会津若松を指すことが、東京にいると多くて、若松の人間じゃないのに、会津出身といって、会津を誇りに思っている事が、すこし恥ずかしい気がしていたけど、会津の人の誇りは、会津藩から来ているわけではないのかもしれない。

今は田んぼが多い坂下町に、東北で第二位の古墳があったり、その周りにも沢山の古墳があって、大和以外ではそういうことは珍しいらしい。そして、540年に、中国の僧である青岩が恵隆寺を起こしたようだ。実は奈良、京都よりも早く仏教が伝わっていた可能性さえあったらしい。

寺は栄え、数千人の僧がいたという。現在でも恵隆寺には8mを越えるご神体と、密教様式を忠実に再現した2m弱の身の丈をもつ眷属30体が揃っている。これは京都の三十三間堂と会津の恵隆寺だけだという。

そして、青岩がいた会津坂下町の隣町である塩川町には5世紀から6世紀にかけて古屋敷遺跡という、国内最大級の豪族の屋敷があった。富の集積と強大な政治力、軍事力が想定されるらしい。

まさにその古屋敷遺跡の時代に中国の僧侶青岩がその地にいたとなれば、仏教が会津から始まったというロマンもある。

さらに縄文時代まで遡れば、常世原田遺跡からは、縄文早期遺跡は通常は小規模な物が多い中、大量の土器や土偶、石器が出土するという。

世の中に広く知られる東北という地域を、覆す現実があるのかもしれない。

歴史的には、大和王朝の侵略を受け、戊辰戦争で敗退すると言う、敗者の歴史であるから、歴史上に燦然と輝くわけにはいかないのかもしれないが、そういう物が実際、会津にはあるんだということがわかった。

磐椅神社

いわはしじんじゃ。聞き覚えがないけど、猪苗代町にある神社らしい。

神功皇后摂政50(250)年、磐梯山頂に創建される。天平元(729)年、現在の地に遷座。

この神社が創建された250年という時代は弥生時代で、東北でも有数の格式らしい。会津総産土神とのこと。

昭和61年に倒壊したご神木から桜の木が育っていて、杉と桜が縁を結んだことから、えんむすび桜と呼ばれているらしい。

近くには西峯遺跡という縄文時代の遺跡があるらしい。猪苗代町に近い塩川町常世原田遺跡という縄文時代の遺跡があり、通常の縄文早期の遺跡と違って、大量に土器や土偶などが出土するらしいから、縄文時代には栄えた所だったのかもしれない。

ここの末社が土津(はにつ)神社らしい。会津藩初代藩主保科正之が祀られている。保科正之は神道を学んだ人らしい。

この神社も知らないけど、この神社には、私の家は縁がある。血縁とかではなく、仕事上の関係のようだ。ここが、私の苦しみの原因のような気がする。

戊辰戦争で焼けて、再建されるときに関わったようだ。

参考
http://www.aizue.net/sityouson/tera-inawasiro.html#iwahasijinjya
http://www.bandaisan.or.jp/enjoy/shrine/
http://www.fukutabi.net/fuku/inawasiro/tutitu.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE

2014年1月31日金曜日

大塚山古墳

4世紀末の築造とされ、東北最古の古墳の一つらしい。東北地方では第4位、福島県内では会津坂下町の亀が森遺跡についで第2位らしい。これは会津若松の一箕町にあるらしい。

日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出されたそうだ。

この古墳の発見で、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明されそうだ。

三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」と通称され、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられていたとのこと。

出土品は、岡山や福岡の古墳から出土した物と類似しているらしい。

若松から自転車で行ける距離の坂下町では、4世紀中頃に鎮守森古墳が作られているけど、そことの関係性はどうなのだろう。鎮守森古墳が作られてほどなく、坂下町には亀が森古墳も作られている。坂下町の古墳からは埴輪や二重口縁壷というものが出土されているようだ。

また、4世紀前半頃には若松に全長84mの堂ヶ作山古墳、全長65mの前方後円墳である飯盛山古項が作られたようだ。

参考

立木観音(恵隆寺)

立木観音を調べていると、会津の人の、観光のなんていうか、資源を活かす事の下手さにため息が出てくる。地元だから、頑張って欲しい。

せっかく去年会津が注目されたのに、立木観音がすごいなんて、だれも知らない。私は、子供のころ遠足かなにかで行ったかもしれないけど、印象にない。

子供は仏像なんか興味がないから、派手に観光地化でもされてなければ印象に残らないし、だから、私が会津の観光地でどこがいいか聞かれても、立木観音なんて出てこない。

本尊の身丈は8m50cmあるらしい。弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻したと言い伝えられるらしい。

それだけでもすごいけど、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており、30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われるらしい。

それで、なんでそんなものが会津にあるのか、坂下にあるのかだ。

立木観音がある恵隆寺は、欽明天皇元(540)年、中国、梁の高僧である青岩が庵を結び、後に高寺と呼ばれ隆盛を誇るも、慧日寺の興隆により衰退したらしい。

ウィキペディアによると、仏教が伝来したのは552年説と538年説があるようで、538年説が有力なようだが、540年に恵隆寺が出来る前から、青岩というお坊さんが会津にいたとすれば、奈良、京都より先に会津に仏教が伝わった可能性もあるらしく、栄えた時期にはお坊さんが数千人も会津にいたらしい。

この時代より少し前の4世紀から5世紀の坂下では、亀ヶ森・鎮守森古墳という、東北では二番目に大きい古墳が作られていたり、古墳が継続的に作られていたという、日本列島のなかでもほとんどない地域だったようだから、お墓である古墳を作る事と、仏教は、なんだか親和性はありそうだ。

参考

陣ヶ峯城

坂下町にある城跡で、平安末期の城館らしい。保安元(1120)年、越後の伝城四郎長茂が築いたといわれ、永久2年(1114年)に藤原忠実が伝領しているらしい。藤原忠実は官歴の項目が華やかなので出世した人のようだし、藤原だから京都の人だろうか。

遺構から白磁などの多くの貿易陶磁器や青銅製品、鉄製品が出土したらしいが、それらの状態から、城は焼失したと推定されるらしい。これらの白磁は博多ルートでしか輸入されない高級品だったらしい。

この城が立つ70年位前の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請していて、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に喜多方市に熊野新宮社が遷座・造営されている。そこで100人以上の神官が働いていたらしい。

坂下と若松は自転車で行ける距離だし、坂下と喜多方も近い。関わりがないわけがないけど、どういう関わり方だったのだろう。

これより前の、4から6世紀の古墳時代から会津には豪族がいたみたいだけど、11、12世紀になると西日本の人間が出入りしているらしく、7、8、9世紀頃に何があったのか気になる所だ。


参考
http://www.aizue.net/sityouson/aizubange.html#kamegamorikofun
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E3%81%8C%E5%B3%AF%E5%9F%8E
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-26

亀ヶ森・鎮守森古墳

ここの土地の血も、私には入っている。

亀が森古墳は福島県内では最大で、東北地方では宮城県名取市の雷神山古墳に次ぐ第2位の規模の古墳らしい。

後円部上に観音堂、稲荷神社が祀られている。未発掘であるが、4世紀後半から5世紀の築造と推定されているそうだ。

鎮守森古墳は4世紀中頃築造と推定され、後方部上に八幡神社が祀られているらしい。

坂下町に古墳が多くあるなんて知らなかった。宇内青津古墳群というらしい。

古墳時代前期を通じて古墳が継続的に築造された地域は、大和などの中枢を除けば列島内を見渡してもほとんどないらしい。

この時代から100年後位に、隣町の塩川町に国内最大級の規模を持つ屋敷が出現するのか。どういう流れなんだろう。

そして、今のあの辺りの静けさはなんなんだろう。


参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E3%83%B6%E6%A3%AE%E3%83%BB%E9%8E%AE%E5%AE%88%E6%A3%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%86%85%E9%9D%92%E6%B4%A5%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
http://www.aizue.net/sityouson/aizubange.html#kamegamorikofun

伊佐須美神社

子供のころ、よく行った気がする。あわ饅頭は、違ったっけ?

祟神天皇10年(紀元前88年)に創建されたらしい。紀元前だから、キリストが生まれる前から、日本には神社があったということか。とはいえ、祟神天皇とは、3世紀から4世紀に実在したかもしれない人物だそうだ。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われているらしい。

伊佐須美神社は会津総鎮守で岩代の国一之宮、奥州二ノ宮として崇敬を集めているそうだ。

四道将軍の大毘古命と建沼河別命の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、父子が、御神楽岳で出会ったことから、「会津」という地名が起こったらしい。御神楽岳はもともと伊佐須美神社があった場所らしい。

ウィキペディアによると、四道将軍とは、日本書紀に登場する皇族(王族)の将軍の、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指すそうだ。父子はどの人に当たるんでしょうか。

日本書紀は、学校で習ったから聞いたことがあるけど、日本に伝来する最古の正史らしい。

今度は、正史とは何ぞやとなってくる。

しかし、会津地方は、これだけ、縄文時代から、古墳時代、平安時代と、日本最大の屋敷跡に100人以上の神官がいる神社にと、栄えてきたのに、全然教科書に取り上げられないのは、戊辰戦争で負けたからだろうか。

この前、テレビでもやっていたけど、日本という名前は、もともと東北の国の名前だったらしい。東北には何があるのか。

戊辰戦争だって、会津地方は、福島県だから、京都からは遠いのに、京都守護職とか、なんでそこに会津人が、という感じだ。


参考
http://www.aizue.net/siryou/rekisi-0710-asuka-izen.html
http://www.aizue.net/sityouson/aizumisato.html#isasumijinjya
http://www.aizu-reichi.gr.jp/isasumi/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%81%93%E5%B0%86%E8%BB%8D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

常世原田遺跡

常世(とこよ)という子が下の学年にいた。東京では常世さんという名字の人にはあったことがない。

でも、名字じゃなかったのかもしれない。地名だったのかも。

常世原田遺跡というのが、これもまた、古屋敷遺跡や新宮熊野神社から、歩いて行くのはちょっと遠いけど、高校だったら学区内という感じの場所にあるようだ。

これは、 縄文時代早期の土器らしい。縄文早期中頃というと、およそ8,000年前ということらしい。え?という感じだ。

ウィキペディアによると、縄文時代は年代で言うと、約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)ごろだそうだ。

そして、縄文時代早期の遺跡は小規模な場合が多いらしいが、常世原田遺跡からは土器、土偶、石器は多量に出土するらしい。常世式土器と呼ばれるそうだ。

国内最大級の規模の古屋敷遺跡は5、6世紀に栄えて、11世紀には、100人以上の神職がいる神社がるような、おそらく、神職がそれだけいることは、それ以上の都市あって、縄文時代にも栄えていたということか。今、ちょっと、そんな気配は感じられないぐらいの、何もなかったような静けさは、なんなんだ。


参考
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tohoku/fukusima/40_sokw/sonota.html
http://www.mahoron.fks.ed.jp/tenji/02_shitei_3.htm
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/448.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

古屋敷遺跡

熊野神社長床からそう遠くないところに、自転車で結構すぐ行けそうな距離に、古屋敷遺跡がある。

出土した土器から、5世紀後半から6世紀初頭の古墳時代中頃の屋敷の遺跡ということ。

現在確認されている古墳時代の豪族 (首長)居館関連遺跡の中でも国内最大級の規模で、当時の政治・軍事・経済の中心地。本遺跡の施設規模から、富の集積と強大な政治・軍事力をもつ権力者の存在が想定されるらしい。

平成12年に国指定史跡に指定されたそうだ。

熊野神社長床は1055年に始まったから、11世紀で、それより5世紀前に、すでにあの辺は栄えていたということのようだ。

最近、帰ってないけど、あのあたりは、今は田んぼの中に民家が建っているような感じだけど、 1000年以上前は、政治力や軍事力が集まったところだったのかと思うと、不思議だ。


参考
http://www.city.kitakata.fukushima.jp/shimin/gyosei/14902/14982/16463/16917/016914.html

熊野神社長床

喜多方市慶徳町新宮。国の重要文化財の熊野神社長床という拝殿があるところだ。

私に高貴な血が流れてるとしたら、そこなのかなと思う。なんとなく。霊的な意味で高貴だと、占い師に言われたから、そこからということで。

ウィキペディアによると、長床がある新宮熊野神社は、平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれるらしい。

前九年の役というのは、平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役らしい。もう、訳がわからないが、調べていこう。

この前九年の役で、安倍氏がほろび、清原氏が東北の覇者となったそうだ。

誰なんだ。そして、 源頼義は安倍氏側なのか、清原氏側なのか。

どっちにもついていたようだが、よく解らない。安倍氏と清原氏は東北の人で、源頼義は大阪出身のようだ。ウィキペディアの源頼義の項目によると、出羽の豪族清原氏と協力して安倍氏を討ったらしい。

それはいいのだが、要は、なぜ、喜多方市の外れに新宮熊野神社を作ったのかだ。

最盛期には300余の末社や寺院・霊道が立ち並び、100人以上の神職がいたらしい。その頃の喜多方は、どういうところだったのだろうか。

会津のことと私

あんまり、子供のころの思い出に、いい思い出がないけど、会津で生まれ育った。親戚関係も、会津にいる人が多いから、おそらく、私のDNAの中に会津という要素は相当濃い。

人生というものに、行き詰まって数年。今は東京にいて、自分の人生にもがいている。

占いとか、スピリチュアル関連にも相当すがっている。そうでなければ生きられない。

その中で、生まれというもの、親、その親、祖先、というものを指摘されることが多い。

古い家。高貴な血。

実際の所、実家は、創業100年、私の代で4代目の家業がある。でも、その前をたどると農家だ。

家業を起こした曾祖父の実家も、そこに嫁いだ曾祖母の実家も農家だ。

場所は、会津若松ではない。周辺の田んぼがたくさんあるところの中の、小さな町。

何が、私を縛り付けるのか、なにがあの土地にあるのか、なにもないのか、書いていきたいと思う。