2014年2月2日日曜日

法用寺

美里町にある。寺伝によれば720年(養老4年)得道によって創建され、大同2(807)年に火災で消失し、翌年の大同3(808)年に徳一大師が現在の地に再建したらしい。

720年に寺を創建した得道は、徳道ともいい、後に日光を開いた人らしい。

寺を再建した徳一といえば、807年に磐梯町に慧日寺や、湯川村の勝常寺、今もあわまんじゅうが有名な福満虚空藏尊圓藏寺を作った人だが、それ以前からあった寺には火を放ったのだろうか。

法用寺は、徳一が作った慧日寺が隆盛するまでは、大いに栄えたという。

慧日寺が隆盛するまで栄えた寺と言えば、伝説の高寺もそうらしい。高寺も内紛のようだけど、宝亀6(775)年に出火したようだ。

それで、延暦23(804)年、僧の利仁が中興したらしい。

高寺は欽明天皇元(540)年に中国の高僧である青岩が庵を結んで栄えた寺で、後の恵隆寺だ。恵隆寺の立木観音は空海の作とされる。

ちなみに空海は徳一が勝常寺などを建てたのと同じ807年には熱塩加納村に示現寺をたてている。

慧日寺は会津仏教文化の発祥の地となっているようだけど、すでに540年には中国の高僧の青岩が坂下にいたことや、605年又は652年に役小角と唐僧・知道和尚が飯豊山神社を作ったことを考えると、なにか、徳一は侵略者だったのかという気がしてくる。

それというのも、古墳や遺跡がある、地元に根付いた昔からの権力者がいったであろう、若松、坂下、塩川には、徳一が寺を作っていない。伝説の高寺は坂下に栄えた寺だ。

若松、坂下にはそれぞれ、東北第4位と第2位の古墳がある。塩川には5世紀後半から6世紀初頭に大豪族がいたあとの古屋敷遺跡がある。発掘されていないが、東北地方最大の前方後方墳の可能性がある田中舟森山古墳もある。

勝常寺が出来た湯川村は、若松、坂下、塩川のちょうど真ん中で会津平野の中心のような場所だけど、福満虚空藏尊圓藏寺がある柳津町や恵日寺がある磐梯町は、会津の平野部ではなく、山間の場所だ。空海が示現寺を作った熱塩加納村も山間だ。

807年以前に栄えた仏教文化を壊滅させて、807年に会津に寺を乱立させたのが徳一という雰囲気になってきた。とはいえ、彼が作った寺は栄えて、今でも会津で信仰を集めているから、いいんでしょうが、どうなんだろう。

ちなみに法用寺がある美里町は徳川幕府に関わった天海大僧正の出身地。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%94%A8%E5%AF%BA
http://www.aizue.net/sityouson/aizubange.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80

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