2014年2月2日日曜日

慧日寺

会津仏教文化の発祥の地。平安初期の大同2(807)年、徳一大師が、五薬師の1つとして開創した。開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のもの。

徳一大師は奈良東大寺の法相宗の高僧。

徳一大師、807年というキーワードは今まで何回も出てきた。

湯川村の勝常寺も徳一大師が807年に開いたとされる。勝常寺は大本山クラスの大寺院である七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

熱塩加納村の示現寺も807年に空海が五峰山慈眼寺として建立したという。

示現寺は、大同2(807)年、空海が五峰山慈眼寺として建立したあと、永和元年(1375年)、源翁心昭が護法山示現寺として再興し、奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立したらしい。

徳一大師は空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。この二人が同じ年に会津にそれぞれお寺を作ったということようだ。

密教というと、立木観音だ。脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は密教様式を忠実に表現しているそうだ。身丈8m50cmの本尊は弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け彫刻したと言われるらしい。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われるらしい。

立木観音がある恵隆寺は、540年に中国、梁の高僧である青岩が庵を結び、後に高寺と呼ばれ隆盛を誇るも、慧日寺の興隆により衰退したらしい。

ここで慧日寺と繋がった。

慧日寺は最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられているそうだ。現在は恵日寺として明治37(1904)年に復興されたらしい。山門は、平将門が寄進したと伝えられ、将門自身も慧日寺に帰依していたと伝えられる。乱で討ち死にした後は、娘の滝夜叉姫が身を寄せたそうだ。

平将門の死没は940年、その後、美里町出身で徳川家康の懐刀として江戸の都市造りにあらゆる手を打った天海大僧正は、江戸の守護神として平将門の部位を要衝に配置したらしい。江戸幕府が出来たのは1603年。

なんで会津なんていう田舎のお坊さんが徳川幕府で活躍したんだろう、すごいなと、思っていたけど、天海大僧正が突出してすごかった訳ではなく、彼を生む土壌が会津にはあったのかもしれない。

ちなみに天海大僧正が、得度したといわれる寺が美里町の龍興寺で、そこには天海の両親墓がある。龍興寺は最澄の弟子であり最後の遣唐使として天台宗を完成させた慈覚大師(円仁)が嘉承元(848)年に草創した名刹。平安時代後期の「一字蓮台法華経開結共」は、国宝に指定されている。


参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80
http://www.aizue.net/sityouson/bandaimati.html
http://www.aizue.net/index.html

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