2014年2月1日土曜日

勝常寺

湯川村の勝常寺は国の重の指定文化財に指定されている。木造薬師如来及び両脇侍像は国宝だ。勝常寺は大同2年(807)に伝教大師の論敵として有名な法相宗の碩学徳一上人によって開かれたらしい。

湯川村は地理的には亀ヶ森・鎮守森古墳などの古墳がたくさんある坂下町や、国内最大級の規模をもつ古屋敷遺跡がある塩川町(現在は喜多方市)、若松市にも隣接している。地理的には、会津盆地の平野部の中心と言えるような場所かもしれない。

坂下の古墳は4世紀後半から5世紀の築造、塩川の古屋敷は5世紀から6世紀で、勝常寺は9世紀。11世紀頃になると、関西の政治的に力を持った人たちが会津に来て、新宮熊野神社を建設したり、関西の影響が強まっているようだ。

常世原田遺跡の出土品から、縄文時代から人々が大規模な集団を作っていたらしい会津では、古墳や古屋敷の時代は、まだ地元の人たちで栄えていて、7世紀頃から10世紀頃にかけて、何かが大きく変わったのではないかと思う。勝常寺が出来たのは、9世紀だ。

ちなみに、会津には、仏教が伝来されたとされる538年の2年後に中国人の僧である青岩によって恵隆寺がたてられており、そこには、京都の三十三間堂と恵隆寺だけと言われる、8mを越えるご神体と、密教様式を忠実に再現した2m弱の身の丈をもつ眷属30体が揃っている。

恵隆寺が栄えた時代、会津には数千人の僧がいたとされる。国内最大級の古屋敷遺跡の時代のことだから、全く信憑性がない話ではない。

仏教の地として栄えたのかもしれない会津の、地理的には、中心とも言える、会津盆地の平野部にある湯川村に、創立された勝常寺は当時、七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。

伽藍とは、僧侶が集まり修行する場で、寺院のことらしい。七堂伽藍とは、大本山クラスの大寺院の代名詞として使われる言葉だそうだ。

9世紀の当時は、七堂伽藍は全国に作られていたようだが、湯川村の勝常寺には多くの平安初期の仏像が一ヵ所に保存されいて、我が国では珍しいらしい。


参考
http://www.vill.yugawa.fukushima.jp/kyouikuiinkai/bunkazai_01_kenchiku.html
http://www.good-stone.com/hp/top/qa/qa-84.htm

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