2014年5月20日火曜日

塩川町史をまとめる(奈良時代)

奈良時代は、広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。

狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。

奈良時代になると、塩川町域では内屋敷遺跡が大規模に展開していく。そこには仏堂も造営されており、有力層の居宅も置かれていたものと思われる。

その一方で平安初期の9世紀前半には荒屋敷遺跡に川湊が作られ中世初期まで続いていく。

内屋敷跡の立地も日橋川に面した段丘上である。

塩川町域が古代から中世を通して日橋川を用いた会津盆地北部の流通拠点となった基礎は既に飛鳥時代に始まっていたことも考えられる。

そして、奈良時代末頃になると、日橋川に注ぐ田付川を遡ったところに地域有力層の居宅と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bが出現する。

この遺跡は9世紀後半に大きく展開し、10世紀末頃まで続いていく。この時期は、会津地方の北部が耶麻郡として会津郡から分立していた時期で、この居宅遺跡には耶麻郡の郡領層が居住していた可能性が高いと言える。

また、9世紀後半頃からは耶麻郡の中心地域と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bの周辺から5キロ近く離れた大塩川流域にも居宅が成立し、11世紀前半まで続く。

塩川町域は、奈良時代には会津盆地北部の中心地域であり、奈良時代末頃に会津郡から分地された古代耶麻郡の中心部がこの辺りであったことを示す。

平安時代中頃にはそこに新たな有力層が加わり、11世紀中頃までにはそれらが消滅し、古代の遺跡が姿を消し、中世的社会が始まるものとされる。

ここまで調べて、荒屋敷という言葉を何度かキーボードで打ち込むと、変換候補に阿頼耶識が出てくる。

阿頼耶識(あらやしき)は大乗仏教の用語で、サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。

また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの大乗仏教の根本思想のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。

興味深いのが、ālaya の語義は、住居・場所の意であるというところだ。

もし、古屋敷、荒屋敷、内屋敷などの塩川の遺跡の名前が、仏教から来ているものだとしたら、どうだろうか。

538年には中国の僧が、会津に仏教を持ち込んだとしても、そのときに始めて中国人が会津に入ったときとは言えないのかもしれない。

それ以前から、中国との交流があったからこそ、僧が迎え入れられ、仏教が根付いたと考える方が自然だ。

古代の塩川では、北陸の影響が強くなる時期があるが、新潟から日橋川に繋がる阿賀野川を通じた交流だとしたら、そして、新潟に、中国の船が来ていたらと考えると、可能性として十分にある話のような気がする。

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